宇文研準備室

例会報告

 5月7日、大阪市内某所にて、宇宙文化研究所例会を開催した。メンバーはA・シマノフ、M・ダウエ、アキヲ君の各氏に風海である。

 ぼくは実質的な利益のまるでない、純粋に知性の戯れだけによる会話を愛してやまないのだが、この例会はいつもそんな具合に進行するから、本当にありがたい。とはいえ、全く何にもなっていないかと言えばそうではなく、ここで活発化した知性の動きが、やがて創造的な活動となって還元されるのである。そのための投資のような意味合いもあるわけだ。だから、すぐ身にならないことはしないと言う人は、実質的と本人が思っているにもかかわらず、実質を失っていると思う。目先の小銭に目を奪われて、一歩先の大金を逃す人のようなものである。

 テーマは大体一貫して「巡礼」だった。巡礼は行く前はもちろん、行った後に意味があるのではない。巡礼しているまさにその瞬間こそが、意味なのである。また、他人ではなく、自分が歩くのである。だから、ともかく行かなくてはならないのだと言うことになる。

 誤解されがちだが、巡礼は「修行」ではない。修行で、たとえば千日回峰などは、行をやめるイコール死を意味する。それほど厳しい状況の中で、徹底的に自分をなくし、かつて自分だったところへ神仏を置換する作業である。だから、仮にぼくが出来なくても、誰か立派な人が成し遂げてくれれば、それで十分である。ぼくはその人を通じて仏様を拝めばいいのだから。

 しかし、巡礼は、ぼくがぼくを追いかける旅なのだ。どこまで行っても、ぼくはぼくに追いつけないし、かといって自分と言うものが神仏にい入れ替わるわけでもない。それでも歩かなくてはならないのは、歩いているまさにその瞬間に「何かがある」に違いないからである。それが何なのかは、巡礼に行ってから、みんなで報告したい。

      風海

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名刺を作ろう

 最近、名刺交換をする場面が何度かあった。ところがぼくは名刺を持っていない。以前、「閑人」「日本座禅振興会会長」という名刺を作っていたのだが、前者は配り尽くし、増刷せず。
 後者はある女性が家族に無断で旅行に行き、心配したお父さんが捜索願を出して、彼女の机から発見された名詞が問題視され、うちに警察から電話がかかるという怖い目にあったのでそれ以来使っていない。

 さっき、ダウエ氏とも話していたのだが、我々は「所属」がないのだ。「〇〇大学/高校非常勤講師」というのは、仕事ではあるが正式に言うと所属ではない。入退出カードにもちゃんと「教職員証ではありません」と書かれている。

 そこで、ぼくは宇宙文化研究所の研究員なんだから、その名刺を作ろうと思う。しかし、ただそういう文字を刷り込むのでは面白くないので、何かロゴなんかがあればいいと思う。たいそうなものでなくてもいい。アイディアをお持ちの方はご一報ください。

    宇文研 風海

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お詫びと訂正

「宇文研準備室」の設立口上に、

「少なくともぼく達は現在日本の「研究環境」に不満を持っています。」

 というような文章を書いておりました。この書き方では、誤解されてしまう。宇文研の趣旨は、面白いことを楽しんでやろうということなので、いかなる意味においても「不満」は言うものではない。

 よって、この文章、次のように言い換えます。

「ぼくたちは、現在日本の「研究環境」を多様多彩で楽しいものにしてゆきたいと思っています。既存の研究機関、施設に受け入れてもらえないのなら、自分で身の丈に合うものを作ればいいじゃないか」

 訂正をお願いします。

     風海

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トポス(場)からの離陸 その②

 ぼくは日本を代表する人気食育教養マンガ『美味しんぼ』(雁屋哲・原作/花咲アキラ・画 小学館)を愛読し、感心したり首をかしげたりして愉しんでいるのだが、その最新巻は環境問題がテーマであった(104巻「食と環境問題」小学館、2010)。天竜川、長良川のダムや河口堰、築地市場移転、六ヶ所村再処理工場の四つの環境問題に絞って登場人物達がそれぞれを取材し、「究極のメニュー」対「至高のメニュー」で対決をするという内容である。

 対決自体は形骸化して、もはや興味の範疇からは外れてしまった感があるのだが、その結論は興味深かった。環境問題を引き起こす三角形として「政府・ゼネコン・学者」を指摘しているところである。

学者が何で、と思うところだが、これが重要なのだ。政府とゼネコンは官民の利益団体の代表で、学者は彼らの行う事業の正当性を「客観的科学的」に裏付ける存在として利用されているというのである。『美味しんぼ』では河川工学や原子物理学など主に理系の学者ばかりが登場しているが、古来からの伝統を考えると、文系の学問もこのトライアングルの一角に組み込まれていることは確かである。中国においては科挙に合格して官僚となるためには、学者としての蓄積が不可欠だったし、ヨーロッパの神学も、教会による民衆支配の理論的支柱を造りあげて来たという側面が大きい。

以前ある先輩が、仲間内で飲み会をする度に、理科系の学問は役に立つけれど、文系は今ひとつ役に立たないから劣等感を禁じ得ない、という話題で盛り上がる、と語っていたことがある。確かに大型プロジェクトのほとんどは理系であり、文系は次々と予算を減らされているから、そう思っている関係者は以外と多いのではなかろうか。

しかし、一寸まった。「役に立つ/立たない」とは、どういうことなのか。この場合の「役に立つ」とは、くらしを便利にするとか、人生を豊かにする、という意味ではない。即刻「金になる」ということである。つまり先のトライアングルの一角を占めることができて、政府の方針に学問的根拠を付与するための、潤沢な研究資金が与えられるという意味である。その証拠に、すぐに「利用」できない基礎数学などは、科研費も少なく、人気も薄い。そうであるならば、役に立つといっても、決して自慢できる事柄ではないように思う。

基礎数学などに比べたら、歴史学には「これまで国家の役に立ってきたという歴史」がある。つまり金になってきたわけだ。ところが、現在は研究費は削られ、学生には人気がない、という凋落の危機に見舞われている(らしい)。これは大変だ。みんな歴史研究の今日的意義、有用性を示そうとして必死である。

そうは言っても、たくさんの研究費をもらえて、成果を生みだしている歴史学者も多いことだろう。そして彼らは『美味しんぼ』の指摘する環境問題を誘発するような政府との癒着は自分にはないと信じて疑わないだろう。直接的にはその通りである。

しかし、世の中には「タダ(フリー)」は存在しないという原則がある(苫米地英人『フリー経済学入門』フォレスト出版、2010)。ぼくたちが買う商品の価格には、必ずその広告代が上乗せされているように、何かがタダで提供されるとき、必ずそれを回収し利益を上げる仕掛が確立されているのである。

文科省の科学研究費とて、例外ではない。これをもらうためには、国の要求する研究基準を満たさなければならず、それは次第に内容にも及ぶ。個々の研究者単位ではなにも見えないとしても、俯瞰的な位置から眺めてみると、政府の研究費を与えられて行われた研究の蓄積から、もしかしたら取り返しのつかない代償をぼくたちが払わされる仕掛が生み出されているかも知れないのだ。

だから、ぼくは学術振興会の研究費をもらえなかった友人に、おめでとうといったのだ。彼は始め憮然としていたが、自分の好きな研究を心おきなくできるという、何物にも代え難い自由を保証されたと思えば、安いものではないか。

歴史というものの、もう一つの側面には「ものがたり」がある。というよりも、『史記』列伝の躍動的な記述やホメロスの叙事詩を持ち出すまでもなく、歴史の始原(アルケー)は場(トポス)に付随した人間の物語ではなかっただろうか。始原において、歴史はトポスに密着し、人々の物語を紡ぐものであったのだ。

金にならなくなり、その有用性を研究者自身が疑い始めた今、歴史学は本来の面目を取り戻す時期に来ているのではないだろうか。トポスからの離陸を得意満面になって疑いもなく推し進めるのではなく、始原の場所へ回帰してみるのも一興ではないか。「学界」に隷属したテーマではなく、他の誰でもない自分のテーマを研究し、ただ友人の間で愉しむだけ、という形態であってもいいのではないだろうか。何でも金に換算して、工学まで用いてせこく稼ぐことに汲々とする現代世界において、再び自由な知のひらめきのアゴラが重要になってくるに違いないのだから。

        風海  

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トポス(場)からの離陸 その①

 先日、フランス近世史のアレクサンドル・シマノフ氏、同中世史のモーリス・ダウエ氏および自称ローマ史専攻でおもろいこと探訪家のアキヲ君と、大阪某所にあるワイン屋さん「トルメカ」(仮名)にて会談する。話題は主にサンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼のことなどだったが、帰りにアキヲ君と電車に乗っているとき、彼が語ってくれた博士論文の構想を聞いている内に、ある思考が胎動しはじめるのを覚えた。

 アキヲ君は古代ローマの劇場にこだわり続けている。そして彼は劇場が人々の認識の中で「ローマ的なものの代表」となったのは近代であり、「歴史」というものがいかに「見たいようにしか見ない思考」の産物であるかを主張したい、いうことだった。その言やよし。

 ぼくは彼に個物または特定の場としての劇場が、観念の上で「ローマ的象徴」へと離陸していく瞬間をとらえると面白いんじゃないの、と例によって無責任なアドバイスをしたのだが、自分で言うのもおかしいが、この「トポス(場)からの離陸」って、ちょっと魅力的な表現なんじゃないだろうか。

 思うに歴史はいつも「トポスからの離陸」を目指していたのである。つまり、「その地域土着の物語」であるはずの歴史は、それを利用する者の手によって、常に権力構造の補強材として使われ、事象が事象のまま観念へ統合される、という「歴史」を持っている。その際の、誰もが疑わなくなる「イメージ」への事象の昇華を指して、「トポスからの離陸」というのである。

アキヲ君のフィールドであるローマ史で言うと、ローマ帝国は確かに広大な領域に活動範囲を持っていたが、それは今で言う「領域支配」ではなかった。当時は都市国家の時代であるから、局地的な人口密集地とそれらを結ぶ街道をおさえるのが重要で、面積としてとらえるという見方は稀薄だった。そしてローマ帝国は支配地域の人民にローマ市民権を与えることで発展したわけだが、この「帝国」なるものも、現在の観念からすれば、実体はスカスカなものであったという。

かつてその筋の専門家であるイアン・H・ヒッサン氏のお話を伺う機会があったときに尋ねてみたのだが、ローマ帝国というのはいわばやくざの親分のようなもので、必ずしも精緻な統治機構を有していたわけではなかったのだそうだ(少なくとも資料から実証できる範囲では)。それゆえ、ぼくたちの考える「ローマ帝国」像というのは、これはアキヲ君の指摘通り近代以来のいわゆる「歴史学」の産物なのである。

そんなら、近代歴史学が何用あってそのようなローマ像をつくったのだろうか。ごくおおざっぱに言えば、当時現在進行形で進められていたヨーロッパ列強による帝国主義の精神的より所を創出するためである。ギリシャ・ローマに発想の源泉を持つハイデッガー存在論が、ナチス・ドイツの思想的基盤を担保したのも同じ構造である。そのハイデッガーがイマジネーションの基礎としたのが、歴史学者の創り出した「ギリシャ・ローマ」だったというわけだ。

ものすごく雑駁な話しで、ご専門の方々のおしかりは覚悟の前で言うのだが、そもそも「歴史学」というのは、そういう役割を持った/持たされた学問なんじゃないかとぼくは思っている。日本において『記・紀』が作られた事情も、政府(大和王朝)が中国と付き合う上での「歴史の必要性」に応じたものであった。その本家の中国では、現在の王朝の正統を示すために前代の王朝の歴史が是非とも必要だった。今ある二十四(五)史という正史は、すべて官撰かそれに準ずるものであり、個人が自分の興味を満たすために研究した成果ではなかったのである。

だから、歴史学くらい権力と不可分の学問はない、とさえ言えるではないか。前に、ぼくの友人が博士論文の口頭試問で、某教授から「テーマは学界に属するもので、君個人のものではないのだ」という指摘を受けた話を書いたが、あれはある意味実に正統な、正しい発言であったのだ。(この項続く)

         

風海

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文化交渉学とは何か(講演ふうに)

はじめに

 どうも、風海衛門でございます。
 文化交渉学ということを軸に、歴史(学)のお話をせよという要請でしたので、少しばかりお話させていただきます(そんな要請はなかったが)。ここで、当たり前のように「文化交渉学」という語句を使っておりますけれど、よくよく考えてみますと、その実態は字句の明瞭さほどに明らかなものではありません。何がどうなったら、文化交渉であり、それをどのように観察すれば、文化交渉学となるのか。どうもその辺りのところが曖昧であるような気がします。アジア文化交流研究センター長(2010年現在)の松浦章氏の近著には次のような記述があります。

 「近世日本と中国との文化交流を見るとき、最も典型的なものは江戸初期より幕末までほとんど欠けることなく恒常的に続けられてきた長崎における中国貿易である」(『江戸時代唐船による日中文化交流』思文閣出版、2007年、440頁)

 ここに顕著なのは、文化の交渉というものを、二つ以上の文化圏の直接的な出会いの場に限定して分析しようとする態度ではないでしょうか。こうした問題設定のあり方が、いい悪いということではありません。従来の方法論によって研究している限り、どうしてもそうならざるをえないということもありますし、またそれが学会の潮流として広く受け入れられているという事情もございます。ともかく、文化の交渉、交流というからにはそういう研究を行うのが当然ではないかというのが、普通の理解でしょう。
 しかし、果たしてそうした一面的な理解だけでいいのでしょうか。古代から近世にいたるまで日本と中国の間には国力は勿論、文化的にも大きな差があり、中国からは色々なものがもたらされますが、日本からは中国人の生活を変えるほどに大きな文物を輸出したということがほとんどありません。こうした不均衡の中にあって、本当の意味での「交流」が果たされたといえるでしょうか。

 では、どのようなものとして文化交渉を考えればよいか。これはひとつの代案に過ぎませんが、私はそうした一面的な文物の流入しかなく、相互交渉の分析が出来ない場合、受け手におけるレセプター(受容体)がどのように成立していったかということを中心に考えていけばいいのではないかと思います。これは日中貿易だけではなく、例えばインド仏教の中国伝播を考える際にも適応できます。ご存知のように仏教はほぼ一方的にインドから中国へ入ってきたので、中国からインドへの流れは皆無に近い状態です。
 にもかかわらず、中国では老子が釈迦に教えて悟りを開かせたとする「老子化胡」の伝説がございます。こうした伝説が何故どのように作られていったのか、詳しいことはさておき、その事実は中国国内に仏教を理解し、少なくとも老子や荘子といった思想家に近い言説であるという理解が成立していたということを教えているわけです。これを観察することによって、中国国内に仏教への受容体がいかに形成されていったかが分かります。つまり、中国国内でではあれ、インドの文化と中国の文化が相互に交渉しあい、そのアウフヘーベンを通じて中国文化に単体ではありえない厚みをもたらしたことが看取されるのです。

 また、中国の西の辺境、居延というところから漢代の木簡が多数発掘され、そこに書かれている辺境防備の役職を研究すると、どうやら中央で把握されていた体制と違うルールが適応されていたということが分かってきました。これを漢代官僚制の側から見れば、制度の欠陥という結論になるかもしれませんが、辺境地帯の実際、つまり匈奴などの異民族との戦闘が日常的に行われていた場所における応急処置的な制度の改変という視点で見れば、異民族への対応による制度(文化)の変化ということが見えてくると思います。これは春秋時代に趙の武霊王が、従来の馬に引かせる戦車から、「胡服騎射」といって、ズボンをはいて馬に乗って弓を射るという戦闘スタイルに変えた事などと同じく、異民族の文化と中国の文化が止揚された果ての変化であることが分かります。

 もうひとつ、日本の茶の湯について。これは中国からもたらされたお茶と茶器(一部は朝鮮半島から)を日本で独自の使用法として一つの世界的な文化にまで高めた好例です。その背景には、宋代の文化というものが伏在しています。中でも禅宗とのかかわりはつとに指摘されるところですが、そもそも、その禅宗が宋代の文化に根づいたのは、中世から近世にかけて、戦闘のスタイルが変化したこともその一因ではないかと思われます。例えば三国時代の戦闘は、集団同士のぶつかり合いで、『三国志演義』に描かれるような華々しい英雄同士の一騎打ちは存在しませんでした。
 各軍団の大将はそれぞれ大土地を所有する豪族であり、本人が討ち死にすると全ての根底が覆るため、どんな武術の達人でも、戦闘時には軍陣の奥深くに身を潜めていたというのが実情でした。一騎打ちが行なわれるようになったのは、宋代に入ってからで、近世では一軍の統率者が中小の地主へと変化し、戦場における華々しい軍功によらなくては、出世することができないという社会構造が確立したからです。そこでは、『水滸伝』の好漢たちのように、大立ち回りを演ずるという、やや芝居がかったパフォーマンスが現れたのです(逆に、『三国志』の英雄の描き方には、宋代のこのような背景の影響が見られます)。

 この一騎打ちというスタイルは、そのまま仏教に変換すると、禅宗における僧侶同士の問答となります。これが徐々に日本へ輸入され、一つの茶の湯という形に統合された時、禅的なものでも、戦闘的なものでもない、日本独自の「気」による一騎打ちの場として完成されたわけです。ですから、初期の茶の湯は戦国大名に好まれたところからも分かるように、ただの呑気なお茶会ではなく、気を練る場、精神的な武術の鍛練の場としての性格が強かったであろうと思います(余談になりますが、豊臣秀吉が千利休を殺したのは、茶の湯における気の戦いにおいて、連戦連敗し、プライドを傷つけられたためであると私は思います)。

 このように、文化交渉というものは、実際に二つ以上の文化が出会う場そのものの分析ではなく、片方の文化における受容体の成立という面に焦点を当てることにより、その文化の発展への理解が深まるという形で考察されるのが、自然なのではないかと思います。

★道教文化の日本流入★

 話が大分文化交渉とは違うところへ来てしまいましたので、もとへもどり、日本文化と中国文化の接点として、道教文化の流入についてお話したいと思います。日本の文化が実は道教の文化を基底に形作られているといえば、驚かれる方も多いのではないでしょうか。しかし、これは故なき事ではなく、中国を北と南に分けたとき、日本に入ってきたのが南の文化だと言い換えてもいいからです。周知のように、上代の日本では遣隋使、遣唐使によって中国文化を輸入し、律令体制その他の制度を整備したわけですが、中央によって採用された制度以外の民衆レベルにまで拡張できる文化という面で見ますと、北のものよりも南のもののほうをより多く取り入れているわけです。なぜかと申しますと、遣唐使船はまず南の寧波に入港するのですが、そこから長安までいけるのは遣唐大使副使以下十数名に過ぎず、残りの乗員はみな港の側で足止めされるからです。
 その状態が数ヶ月も続くわけですから、後に残った人々が何もせずに大人しく宿舎にいるわけがありません。それぞれ興味の赴く範囲で書物やその他の文物を購入したり、様々な風習に接したりといったことを行い、それを日本へ持ち帰るのです。そういうわけで、遣唐使が正式に将来した制度や文物の数以上に、中国南方の文化が日本へ流入してきているわけです。その代表的なものが、道教に代表される呪術的な文化風習です。

 道教の研究者である福永光司氏は、中国の文化を大きく北と南に分け、北を馬の文化、南を船の文化と呼んでいます(福永光司『タオイズムの風―アジアの精神風土』人文書院、1997、『道教と日本文化』人文書院、1982年)。淮河から秦嶺山脈を境に気候が変化いたしまして、北は寒冷で乾燥しており、作物はアワ、ヒエ、キビ、大麦、小麦といったものになります。南は温暖かつ湿潤で米がとれます。北は草原砂漠地帯で、馬などの牧畜をして暮らし、肉とパンの食事が中心であり、南は漁労文化が発達して米と魚が主食です。また、北と南の違いを図式的に申し上げますと、北は儒教文化、南は道教文化、北は太陽を男性とし、南は女性とみる。北は右を尊び(右襟)、南は左を上とする(左襟、『論語』では野蛮とする)。北は偶数を好み、南は奇数を好みます(『老子』に「道は一を生じ、…三は万物を生ず」)。北は男性的な剛の文化、南は女性原理による水、柔の文化です。この両文化が混ざったのが、紀元前三世紀、楚(舟の文化)出身の劉邦が、北の中原で漢帝国を建てたことに始まります。
 武帝の時、馬の文化一色の様相となりますが、それは支配階層だけのことで、民衆レベルでは舟の文化は脈々と受けつがれていきます。道教はもともと紀元前六世紀頃のある一派の言行を、紀元前三世紀頃に記録した『老子』『荘子』を中心とする黄老道と、民間の呪術宗教が融合したもので、道教教団の成立は六世紀頃のことで、四世紀頃に江南で起こった変革を、六世紀に入って陶弘景がまとめあげ、上清派道教、茅山道教、また茅山が南京の東南約八〇キロの所にあるので、江南道教とも呼ばれました。シャーマニズムと『易』『老子』などの哲学を導入した神仙道が融合し、初期中国仏教の教説をも取り込んで、土着宗教化したものを集大成したのです。

 道教による日本文化への影響は、上澄みだけのものではなく、深く基盤にまで及んでいるわけですが、仏教界および神道界のネガティブキャンペーンによって道教の影響は「なかった」あるいは希薄なものとされてきました。学会においてもその傾向が強く、日本古代史はこれまで道教の神学、文化と日本文化の関連というものをまともに取り上げることをしてきませんでした。道教そのもの、道観や道士など具体的なものの将来は正式にはありませんでしたが、日本文化の形成発展にかなりの影響を与えたことは確かです。

 では、この道教文化は、どのように日本の文化の中へ入っているのか。たとえば天照大神という神様がいますが、このひとは女性ということになっている。太陽を女性とするのは舟の文化の特徴であり、馬の文化の星神(北極星)である「天皇大帝(すめらみこと)」が結びついて天皇家の先祖となったというわけで、福永さんはこうしたことを可能にした日本文化は、「外国の文化、文明のよいところを採り入れ、悪いところを捨て、新しい文化を作る能力に優れています」と述べています。ちなみに「天皇」という名称の初出は推古天皇の丁卯の年(607)に造られた法隆寺金堂の薬師像に刻まれた「池辺大宮治天下天皇」という銘文です。この「天皇」というのは道教では天皇大帝(太一神、玉皇大帝)であり、そのシンボルは剣と鏡です。これに四世紀の中頃、儒教のシンボルであった玉が最上位のものとして付加され、仏教の三尊像に倣ってできた道教三尊に配当されました。玉が元始天尊、鏡が太上道君、剣が太上老君のそれぞれシンボルとなります。この三種の神器が日本に導入されるのは、『日本書紀』(神代下)に、天照大神が葦原中国に降臨する瓊々杵尊に三種類の宝物として「八尺瓊の勾玉と八咫の鏡と草薙の剣を賜う」とあるのが最初ですが、天皇の象徴となるのは平安時代中期頃のことになります。

 それはちょうど藤原摂関家の時代ごろに当たるわけですが、そのときかかれた長編小説に有名な『源氏物語』があります。この小説は国風文化の元で書かれ、外来的な要素がないかのような印象ですが、実は道教の影響がかなり色濃く現れた文学でもあるのです。まず、冒頭の巻きを「桐壺」といいますが、これは完全に道教由来と分かります。道教では仙人の住むところを「蓬壺」といい、これになぞらえて宮廷の女官の部屋を「桐壺」「梅壺」「藤壺」「梨壺」などと植物の名で呼ぶ慣わしになっておりました。さらにこの巻きの下敷きは唐の白楽天の「長恨歌」ですが、この物語的な詩のストーリーは、亡くなった楊貴妃の魂を「臨邛の道士」(四川出身の道士)が魂呼びをして、玄宗皇帝と再会させるというものです。また著者の名を「紫式部」といい、光源氏の正妻の名を「紫の上」といいます。この紫という色は当時十一世紀の社会では天皇家に結びつく色だという通念があったわけです。中国では紀元前3~2世紀頃北極星(北辰の星)が神格化され「太一神」となります。この太一神の宮殿を「紫宮」といい、紀元前後になって太一神が天皇大帝と同一視され、その神殿が紫宸殿、紫微宮などと呼ばれます。北魏の時代になって、この天上の存在が地に投影されて皇帝の宮殿をも紫宮、紫微宮といいはじめ(『魏書』文帝紀)、日本へは北魏から天武天皇の時代に導入されます。それとは別に、漢の武帝が官僚制を整備した際、衣冠束帯の色を定め、紫を最上位としたことを受け、これが聖徳太子の冠位十二階の制度へと繋がっていきます。

 聖徳太子による冠位十二階の制定は、推古天皇の十一年(603)十二月であり、『日本書紀』推古天皇の同年の条に「十二月戊辰朔、壬申に始めて冠位を行う。大徳、小徳。大仁、小仁。大礼、小礼。大信、小信。大儀、小義。大智、小智。併せて十二階なり」とあり、また「並びに当色の絁を以て之を縫う」として、徳を紫、仁を青、礼を赤、信を黄、義を白、智を黒に配当しています(河村秀根『書紀集解』)。このうち、徳以外は儒教で言う「五常」であり、これを五行に配当しています。徳をこれらの最上位に置く思想は、五世紀、六朝時代に出来た『太霄琅書』によっています。また、「紫天」「紫清」「紫字上清」などといい、紫色を神仙の象徴とする考え方も同書によります。聖徳太子という人物が実在したかどうかはともかくとして、このとき冠位十二階や十七条憲法などをつくった人或いはグループは、かなりこうした道教文献に通じていたといえるでしょう。聖徳太子については、『日本書紀』推古二十一年(613)十二月条に、聖徳太子が道教の真人(不老不死の道術の実践家)と凡人を区別する能力があったと言う記述があります(道端で飢えていた旅人が、屍解していた、という話)。平安中期の大江匡房(1041~1111)による『本朝神仙伝』では、上宮太子は道教の真人そのものであり、「甲斐の黒駒に乗り、白日に昇天した」と記されています。この人はかなり陰陽道とか道教に詳しかった人で、『江家次第』などにもそういった関連のことがかなり書き込まれております。

 道教を中心とする呪術や天文などの技術が日本文化の中で根づき、発展した一つの完成形が「陰陽道」でしょう。道長の時代の安倍晴明の活躍が有名ですが、国風文化の中で道教は日本化されてその命脈を保ったわけです。安倍晴明の活躍を描いた岡野玲子さんの漫画『陰陽師』(白泉社)は、その思想背景をよく消化し、この技術=アートの本質に迫っています。晴明は律令体制の崩壊を告げる内裏の炎上の後、日照りが続く京の都に雨をもたらすべく呪法を行い、その一連の活動の最後のクライマックスとして、天地を一体化させる「三皇五帝祭」を執り行います。この部分は史実ではなく岡野さんの創作ですが、ここで再び本家の道教のほうへと陰陽道を近づけたのは、慧眼であったと私は思います。三皇五帝は三皇(フクギ、ジンノウ、ジョカ)と五帝(五つの方角)の融合で、岡野さんの説では上下縦軸と平面横軸の一体化を意味します。中国の「皇帝」という名の由来も、案外この辺にあるのではないかと思うのですが、これはまた別のはなしになります。
 陰陽道はその後平安貴族の権力闘争に利用され、そういった形で展開して行きます(村山修一『日本陰陽道史話』平凡社ライブラリー、2001年)。関白道長への呪詛を見破った安倍晴明の話などもそうですが、源平合戦の前哨戦ともう言うべき保元、平治の乱(1156、1159)において、その勝敗の分かれ目が両軍の指揮をとった藤原通憲、頼長という二人の陰陽道を信奉する貴族の判断の違いに依った、という話が『保元、平治物語』に伝えられています。この頃もその後も、戦争を行う際に陰陽道由来の易や占筮が使われていたようです。
 
 日本では制度的な面ではそれとなく、また呪術的な面では陰陽道という形で、道教を受容しております。道教が、禁忌、呪詛、卜占、天文、暦数といった実際的な面において、「日本文化」として定着していることが分かります。本家の道教そのものとの比較において、日中文化交渉の実際面が明らかになるのではないでしょうか。今回はそうした考察の結論ではなく、問題提起として様々な例と、考え方の道筋だけを申しあげました。これをきっかけにして、文化交渉という視点から、日本なり中国なり、或いはその他の文化圏なりをご覧になってはいかがでしょうか。その際に、ただ異文化どうしの接触点を探るだけでなく、純粋にその国の文化だと思われるところに、案外文化交渉からのインパクトが潜んでいるのではないか、つまり、そこにこそ文化交渉の痕跡があるのではないかという見方をしていただければ、ずいぶん視野が広がるのではないかと思います。
 今日は、文化交渉学とは何かというテーマを肴に、雑駁な事柄を取り扱いましたので、ちょっと混乱されたのではないかと思います。ご質問がありましたら遠慮なくおっしゃってください。私のお話はこれで終わります。

         風海衛門

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楽問のスゝメ

 「学問」という言葉は「学んで(真似して)、問う」あるいは「問いを学ぶ(真似する)」というふうに読める。どちらも大事なことには違いがないが、終生そのような態度でいて果たして面白いことができるだろうかと考えたとき、そこから離れてみることも大事なのではないかと思うようになった。その契機はいろいろあるが、象徴的な事件をひとつあげよう。
 ある友人の博士論文口頭試問公聴会でのことだった。彼の論文を気に入らなかったと見える副査の某教授が、「君はさかんに自分の問題関心が、と言うが、問題というのは学界に属しているものであり、君のものではないのだ」と公言したのである。問題は学界に用意されており、学者はそれを適宜解いていけばいい。それが研究者の仕事だ、そう教授は言うのである。ぼくは何か冷たいものを背筋に感じた。端的に、これはいかん、と思った。もし本当にそうなら、絶対面白くない。

 『論語』雍也第六に次のような言葉がある。「子曰く、これを知る者は、これを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず、と」(宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店、1974年)では「子曰く、理性で知ることは、感情で好むことの深さに及ばない。感情で好むことは、全身を打ちこんで楽しむことの深さに及ばない」と訳されている)。学問研究は、その客観性重視のため、いきおい自分を「知る者」、思いきって進んでも「好む者」の位置に留めるストイックな姿勢が求められてしまう。
 ごく公平に言ってストイシズムは悪くない。しかし、時として硬直してしまう。悪くすれば居着いて動けなくなる。そして何より愉しくない。ぼくはともすれば自分の問いを否定されるような「学界」などやめてしまい、「楽界」に入りたい。そこは「楽しんで問う」または「問いを楽しむ」ことのできる「楽問」の世界である。そのほうが、「考える」ということをより実行しやすくなるからである。

 では、「考える」とは、本当はどういうことなのであろうか。そもそも研究者といわれる人々は、ものを「考えて」いるのだろうか。ぼくが親しんできたのは主に文学・歴史学だが、「~について考察する」という文字を見ることはあっても、「考察するとはどういう行為なのか」が分かる形で表現されたものに出会うことはほとんどない。
 まず、「専門家」とはどういう人のことなのか。普通一般にはある分野のことを何でも知っている人、ということになるだろう。しかし、それだけでは十分でない。ぼくはその上に「その分野で何が分かっていないか分かっている人」という要素をつけ加えたい。そうでない限り、「問い」が発見できないからである。
 つまり、専門の研究者とは、その分野で「問いを見つけることのできる人」ということになるだろう。誰も見つけられなかったような重要で魅力的な問いを発見して、はじめて「専門家」と言いうるのではないか。どうすれば、そうした問いに行き当たるのか。そこに「考える」必要が入り込むのである。つまり「学界お墨付きの問題」を自分なりにアレンジして研究をするのではなく、みずから考えて「問い」へとにじり寄る。すなわち問いをめぐる思念の動きが「考える」ということなのである。

 そのためには、ただ疑問点を見つければいいというものではあるまい。そこからさらに大きな場へ向けて、「問いを開く」ことが大切である。つまり、A=Bを証明することで、「A=Bが分かった」だけでなく、その他の問題への解答やヒント、または新しい問いへの経路が開かれるような器の大きさを持ちたいと思うのだ。そのための仕方として、「A=B」だけで閉じてしまうのではなく、「A=B」から何かが始まるような仕掛けをほどこすのである。

 これをぼくは「問いを開く」と表現したい。もっとも、言い方は何でもよくて、内田樹さんに倣って「問題の次数を上げる」と言ってもいいし、苫米地英人さんのように「思考の抽象度を上げる」と言っても同じことである。ただ、これらの言葉に満足せず新たなフレーズを作ったのは、上下の垂直ラインだけでなく、水平ラインをも含む広がりを強調したかったからである。だからぼくは自分の問いが宇宙いっぱいに広がってゆくことをイメージしつつ、「問いを開く」と表現してみたのである。そのように思考すれば、楽しんで問い、問いを楽しむ、という姿勢が、自ずと作られるのではないかと思う。
 
 新たに構想している研究所の総タイトルとして「楽問館」とつけたのは、そういう願いを込めてのことである。研究成果の今日的意義にこだわるのではなく、先ずはしっかり自分の問いを楽しむこと。そこからこそ宇宙への還元が始まるのだと信じている。

               宇則齋にて風海識す

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宇宙文化研究所創設のお知らせ

 このたび、われわれ思考の実験室を中心に、「宇宙文化研究所―楽問館―」を設立することになりました。キャッチフレーズは「スピリット・オブ・ユニバース」。カッコいいでしょ(半笑)。

Imagesca06ngi9 この世の事象は全て宇宙の現象であるという観点から、あらゆるものを宇宙文化と位置づけ、枠に縛られない研究活動を行いたいと考え、このような研究所を設立しよう、というわけです。ぼくたちは、現在日本の「研究環境」を多様多彩で楽しいものにしてゆきたいと思っています。既存の研究機関、施設に受け入れてもらえないのなら、自分で身の丈に合うものを作ればいいじゃないか、ということです。

 また表現形式においても、論文や研究発表というのは、ある一定のレベルのものをコンスタントに生産するにはいい制度ですが、何か度外れた、宇宙大に大きな思考というものを生み出しにくいように思います。まず、しなくてはならないのは、魅力的な問いを見つけ、それを広いところへと開いてゆくということ(この「問いを開く」ことについては、「楽問のススメ」において改めて詳述します)。そこで、「問いを楽しむ」という意味の「楽問館」という名を、新しい研究所の総合意的な名前としたいと思います。

 好きなことをするのに、何かを我慢したり、耐えがたきを忍ばなければならないという、20世紀的マインドから自らを解放する意味でも、この研究所は成功させたい。ご賛同いただける方は、ぜひご一報ください。

         楽問館々長予定 風海
 

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