合氣道日和

体調の変化

  久しぶりに稽古に行って、久しぶりに第11体技をやった。体技というのは、同系統の技をセットにして連続で行うものである。30まであり、基本は6つセットとなっている。左右行うので一つの体技につき12回投げることになる。投げる方はいいが、受け身は12回転ばなくてはいけないので、なかなか大変だ。

  関西大会が近いので、今日はその練習が中心であった。それに出る人に付き合って第11体技を行ったのである。それも、何度か投げ受け交替してずいぶんやったので、いい運動になった。少し間が空いたので、体力が心配だったが、全く問題なく、むしろ身体が軽いくらいであった。

  それにしても、このところ体調の変化が目まぐるしくていけない。数日前までだるくて稽古をする気になれず、おまけに腰まで痛かったとは思えない。だるかったときには、逆に数日前まで元気だったとは思えないほどだったから、徐々に弱るとか回復するとかではなく、スコンと突然のように変化しているのである。

  丁度季節の変わり目で、体調にも変化が起こりやすい時期なのかもしれない。しかし、この数年こういう忙しい変化の連続はあまりなかったように思う。自己中心的に見れば、更年期とかそういった類の変化の時期なのかもしれない。あるいは天人相関的に見れば、宇宙規模の変容の時期に来ているのかもしれない。

  現に月が地球から毎日3センチずつ遠ざかっているとか、地軸がゆがみ始めているとか、今年はオーロラが大発生して北米では大規模な停電が起こるとか、日本の夏は冷夏になりそうだとか、そういうお話には事欠かない今年のありさまである。
 そうだからといって特に何も起こらないとは思うのだが、そういったマクロな変化が、ごく小規模にぼくの身体に作用して、翻弄しにかかってきているのかもしれない。どうせなら、技が劇的にうまくなるとか、突如ものすごい健康体になるなどといった変化を望みたいものである。

     風海

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跳び受け身

  このところいろいろ掛け違って稽古をしていなかったが、水曜日と今日道場へ行った。2級の技に前受身が出てくるので、その練習をということで、合氣道の時間ほぼ丸々費やして受け身ばかりやっていたのだが、途中から様子が変わり、こういうことも出来るよということで、跳び受け身の練習になった。

  跳び受け身というのは、文字通り跳んでから受け身をするのである。練習では、二人くらいが体を丸めているところに飛び込んで、向こう側へ受け身をするというやり方をする。上に飛ぶのではなく、水平に前へ向かって飛び込むのだ。初め一人から始めて、だんだん人数を増やすのであるが、最高は七人くらい飛んだという話を聞いたことがある。

  今日は二人までであったが、やってみると案外出来るものである。拳をついてからすぐに身体を丸めないと、背中を打ってしまったりする。コツはうんと前方に飛び込むことであろう。しかし、どういう状況でこういう受け身が必要になるかというと、素通りで足を刈られたり、誰かが前に転がってきたような場面であろうか。

  そのご、小手下しで投げられて、手を放してもらえなかった場合の受け身の練習も行った。同じようにうずくまってもらい、背中に手を置いて、その手を動かさないようにして向こうへ一回転するのである。すると、はじめは例外なく背中から落ちる。それを徐々に慣らしていき、丸まって普通に起き上れるところまで持っていくのである。

  こういう受け身の練習は普段しないので、大変面白かった。今日はほとんど技の練習という感じではなかったのに、時間が早く過ぎた氣がした。もう当分やらないだろうけれど、七人は無理でも三人くらいは飛べるように、自分一人で練習しておこうかと思う。

  風海

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直視できない?

 先日、合氣道関連の某セミナー(呼吸法など)に出席したとき、講師の先生が、

 「みなさん、太陽を見て下さい。氣が出ていれば見られます」

 と、言われた。

 ぼくのならっている合氣道の宗主が、あるところで太陽を見つめる修行をしている行者さんに出会った。行者さんいわく、これは大変難しい修行で、すぐには会得できません、と。そこで、負けず嫌いの宗主は、試しに自分もやってみたところ、いきなり見ることができたそうである。

 ぼくもやってみました。ところが、お日さまの出ている方向に顔を向けただけで、強い光線を浴びて、眼をそらしてしまう。見ようとして見上げながら、心は逃げているという感じが長く続き、こりゃ無理だ、と思いました。おそらく、宗主やセミナーの先生が変態なんだと。だいたい、「太陽と死は直視できない」と言いますから。

 しかし、やってはやめ、ということを繰り返しているうちに、ふと周囲からの刺すような光が消え、うすい紗のようなものがくるくると回りながらかかって、日輪を直接見ることが出来た。
 何か尊いお方の顔を見上げたような氣がして、非常にありがたい氣持ちになったので、ぼくは思わず手を合わせて礼拝したのである。

     風海

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守・破・離

 昨日風邪をひきそうだったので、四股を踏んでみた。夏前まで大体毎日やっていたが、暑くなって汗をかきすぎるので、休止していたのを、このほど冬に差し掛かるに及んで復活したのである。鼻が詰まっていたのがすっと通り、汗をかいて氣持ちがしゃんとした。

 四股を踏むと、大量に汗をかくのである。ま冬の早朝、起きぬけに火の氣のない部屋で始めて、三十分後には足元に垂れるくらいの大汗になっている。そのご、風呂に行って真水を浴びてもなんともないくらい、体が火照る。デトックスになるのだと思う、多分だが。

 すもーじゃあるまいし、四股なんて、と思うかもしれないが、こういう根っこにつながる鍛錬を面白いと思うかどうかが、稽古が続くかどうかの分かれ目だと思う。合氣道にいって、技の練習をして、投げた投げられた、というのも面白いけれど、自分の体が抜本的に変化してゆくのを観察する方が数段面白い。しまいには、技そのものはどうでもよくなってさえ来る。

 そういう次第だから、ぼくは投げるのが上手くない。受け身はそこそこ。三歩進んで二歩退がる、といった感じである。悪くすれば、二歩進んで三歩退がっているかもしれない。しかし、稽古の本質は、二歩ないし三歩退がるところにあるような氣がするのである。進むだけでなく、敢えて退がってみる、という余裕が必要なのではないか。

 ずっと技を進歩させ続けるわけにはいかない。だからこそ、二歩三歩後退することで、余裕を作り、直線ではなく円環的な時間感覚で練習をする必要があると思う。茶道の用語に「守・破・離」というのがある(これを武道の用語に転化したのは千葉周作)。直線的に進むのには限界があるが、延々と続く「守・破・離」の連続だと思えば、氣が楽である。

 ちなみに一般的な理解として、「守」は型を守る段階、「破」はそれから脱皮するブレイクスルーの時、「離」は次の次元へ離陸するフロー状態のことである。しかし、「破・離」に関して、「破」は自分の形が分からなくなる段階(二歩後退)で、「離」はゲシュタルトが崩壊して離散してしまう段階(三歩後退)であるという見方もできる。その時に初めてもとの「守」へ戻ることの重要性が出てくるのである。

 こうした円環を限りなく繰り返して、地中深く根を張っていくと、いずれは達人の域に達するのではないか、と、少なくともそういう希望だけは持てる点に、この「守・破・離」というシステムの優れた点があるのだと思う。

 とまあ、のーがきたれて、今日も四股をやってはみると、さっきから熱が上がっている感覚があって、計ってみると37℃台であった。なあんだ、四股やっても効かないんじゃないの、と思うのは早計で、熱が上がるのこそがデトックス効果なのである。今日は高熱出して、うんとうなされるとしよう(とこれはやせ我慢)。

    風海

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呼吸法

 最近、呼吸法の有効性に氣付き始めている。氣の呼吸法を確立した藤平光一先生は、車の中であれどこであれ、暇さえあれば呼吸法をされていたという。それは、単に暇だからという理由ではなく、呼吸法がいいものだから、続けておられたのであろう。

 では、具体的にどういう効果があるのだろうか。呼吸法を十五分以上すると、血中の酸素濃度が何百倍になったとか、吸酸除炭作用がるとか、免疫力が上がるとかといった医学的データがあるそうだ。道場では、呼吸法をした時の「落ち着いたリラックスの心境」を潜在意識に入れるのだ、といった説明がなされることもある。あるいは、横隔膜を上下させる深部筋を鍛えるという意味合いもあるだろう。

 要は、それらすべての総合であり、氣分よく座る(瞑想する)ことに意義があるのだと思う。藤平先生は、呼吸法によって至る境地を「我が天地か、天地が我か」という「至妙境」であると表現される。これは、禅定であるといっても過言ではなかろうと思う。実際興に乗って呼吸法をしていると、いつの間にか呼吸を忘れるという事態が起こる。そのとき、脳波を測ると、おそらくアルファ波かシータ波になっているのだろう。

 そういった、リラックスしているときが、一番いいことを思いつきやすい。また、心身も休まっているときである。そうやって、心と体を作っていくことは、「浩然の氣」を養うことに通じるだろう。それが何の役に立つのか、と近頃の人は尋ねがちだが、一問一答式に何の役に立つ、というものは実はあまり何の役にも立たない。これが何の役に立つのかは分からないが、何かがありそうだ、というものが本当に汎用性の高いツールなのだと思う。

 ともあれ、何かになりたいと思ったら、迷わず呼吸法をしてみるといいのではないか、と考えて、今実行しようとしているところである。

       風海

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氣の意志法と山の効用

 習っている合氣道に、「氣の意志法」というトレーニング法がある。自分の意識を天地いっぱいに拡大する「拡大法」と、臍下の一点を無限小に集中する「集中法」を交互に行うのである。地味なトレーニングだが、これに通暁すると、爆発的なパワーを発揮できる(らしい)。

 集中法は、なんとなく身体感覚を伴うのでやりやすいけれど、拡大法はどこかで雲散霧消するのでずっとやりにくかった。今日、ロマンチストY田S先生の授業でこの意志法を行い、「拡大した意識のままで集中法へ移り、またその逆も行う」という意味のことを教わった。おそらく、その連続性を強調されたのであろう。

 街へ出るまでの間に歩きながらそれを思い出し、なんとなく感覚できるいっぱいのところまで意識していると、自然に一点の方もできているような氣がし始めた。また、この「意識が広がる」という感覚は、街中のような狭い所にばかりいては、なかなかつかみにくい。しかし、今日はなぜかその感じが上手く分かったような氣がしたのである。

 以前、怪人M野M先生の授業で、見晴らしのいい山の上から下を見下ろして、「ああいい景色だなあ」と感じるその心が拡大法である、と教わった。意味は分ったが実感は伴っていなかった。それが、このたび山へ行き、高くはないけれど一応頂上から、眼下に見える景色のよさに感動する、という経験をしてみると、M野先生の言葉が身体感覚として理解できたように思う。先生は偉い。山は偉い。

 そうして、ぼくは初めて意志法の「氣持よさ」を体感したのだった。合氣道は意志法だ、といっても過言ではないくらい、「心の使い方」(「氣を出すとは、心を正しく使うことである」と主張する藤平光一『氣の話』を参照)が技を左右するので、意志法は継続してやっておきたいと、遅ればせながら実感した次第である。

        風海

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宝塚雪組公演観劇

 久々に宝塚歌劇を観た。前に観たのが宙組・和央ようか、花總まりのさよなら公演で、今回行ったのが雪組・水夏希、愛原実花のさよなら公演だから、サヨナラだけがなんとやら…ということなのか、妙なシンクロである。
 学校の先輩に誘われて観にいくことにしたのだが、直前に先輩仕事が入ってキャンセル、結局一人で出かけていった。

 演目は歌劇が「ロジェ」、レヴューが「ロック・オン」、と書いても何の事だか分からないが、さりとて筋を説明するのも面倒だから書かないが、ぼくはそういうところではないところを今回注視していた。

 まず演技者の「姿勢」、「動き」。これらは「バランス」「リズム」「ラージネス」と分けることができる。トップスターだけでなく、どんな端役の生徒さんも、みな姿勢が良くて、バランスがとれ、動きがシャープで、リズムが合っていて、氣が出ている(ラージネスが表現されている)。

 レヴューなんかは、動きが激しく、しかも底の厚いブーツや高いヒールを履いて、くるくる回ったり足を高く上げたり、それを歌いながらやるのだから、途中息が切れたりバランスを崩すことがあってもおかしくないのに、全くそれがない(それがタカラヅカだ)。おそらく、武道の高段者にしてはじめてなしうる身体運用を、彼女達はやすやすと行っているのである。

 決め手はバランスだろう。バランスは、その重心がどこに落ちているか、軸ができているかによって決まる。そして、ぼくの習っている合氣道の団体では、それを「臍下の一点ができている」と表現する。

 タカラヅカの演技者達は、ぼくの見たところ、みな「一点」ができている。一点などという言葉は知らないかもしれないが、身体でそれを知っているのだろう。よくみると、すばやいターンや動きのつなぎの場面では、すり足に近いステップでバランスを取っている。

 宝塚音楽学校では、バレエ、日本舞踊、モダンダンスなどの授業があるので、そういった各種の技芸(アート)を通じて、あの身体運動を獲得したのであろう。タカラヅカは日本の誇る総合芸術である。それは、図らずも東洋(日舞に代表される)と西洋(バレエに代表される)の融合であり、おそらくその身体は世界に例を見ない高度なパフォーマンスに達していると思われる。

 以前、大劇場のそばで、幾人かの生徒さんが連れ立って歩いているのを見かけたが、男役がリーゼントで決めているという「押し出し」の強さと共に、その歩く姿勢の隙のなさが、武術家のようだという印象を強く持ったことがある。今回そういう視点でじっくり見てみて、やっぱりあのときの感じは間違いではなかったのだ、という思いを強く持ったのである。

            風海

(レヴューの一場面:毎日新聞ホームページより転載)       

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講習会

 大阪市内の体育館で、会長の講習会があった。西日本初の一般講習会ということで、多くの会員が詰めかけ…たらよかったのに、昇段審査会などと時期がかぶったため、当初予定の百人に届かず、ぼくも急遽呼ばれて参加することになった。

 本部長の先生に、日曜日何か予定があるのか、と急に聞かれて、「映画を見ます」などと胡乱なことを言ったため、
「アホか、暇なら合氣道せいっ」
ということになった。ある意味、当然である。

 ほぼ、牛にひかれて善光寺、ではあったが、行ってみてやはりよかったと思う。講習会の内容は「事前に本部の許可なく、サイトや文書で公開してはならない」という規定があり、本部の承諾を取るのも面倒だからここでは公開しない。だから、内容に抵触しない程度に、ごく大雑把にまとめたい。

 講習でやったのは、しかし合氣道ではなかった。技も少しは習ったが、会長は一つの技を教えるのに最低二三時間は必要、という主義で、技をやり始めると時間がなくなるからやらないのだ、と言われた。そしてその代わり行ったのはつまるところ「土台づくり」であった。土台とは、姿勢である。心身統一合氣道では、基本の三要素を「バランス」「リズム」「ラージネス」と表現する。姿勢はバランスに当たる。これはすべての技の基本であり、バランスの悪い状態ではけして技が決まらない。そして、最も奥が深いのが「立ち姿」なのである。

 講習を受けて、できるようになったとは言えない。しかし、方向性は明確になった。いうなれば、目的地がはっきりしたのである。基本である「バランス」の修得。これが、すべての土台であるということの再確認が、今回わかったことだったが、「分かっているけどできていない」ことが分かったのが、最大の収穫だったわけである。この方向で、姿勢を確実に調整して行けば、技は勝手にできるようになるだろう。ということは、一つか二つの技を丁寧に習うより、結局は身になっているということである。

       風海

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後藤田武先生の思い出

 三月一日で、私が道場でお世話になった後藤田武先生の一周忌を迎えます。ご家族の方から、皆に何か思い出を書いてほしいとご依頼があり、筆を執った次第です。本来ならここに載せるようなものではありませんが、合氣道をはじめる直前に、手引きをしてくださった師匠ですから、自らの気持ちに区切りをつける意味でも、書いておきたかった次第です。
 
 光心館道場に通いはじめて一月ばかりたったころでした。まだ厚手のコートを着ていましたので、三月の半ばあたりだったと思います。玄関を上がったところで、道場の中にいる人と話をされている後藤田先生をお見かけしました。
「あ、先生、お久しぶりです」
と声をかけると、一瞬怪訝そうな顔をされて、
「君は、誰やったかな」
「氣圧入門コースでお世話になった者です」
改めて自己紹介すると、先生ははにかんだような笑顔を傍らの人に向け、
「年やな。もう人の顔が覚えられへん」
そう言われてから私の方へ向き直り、
「ああ、あの時の。いや、何となくは憶えてまっせ」
そうして、あの鋭い小さな瞳がキラリと光ったのです。
「あんた、まったく氣が出とらんな」
突如、そう言われました。合氣道を始めて一ヶ月、自分では相当「氣が出ている」ことを意識しているつもりでしたが、今から思えばやっぱりしょぼくれていたのです。そのことを先生にズバリと指摘され、「このままではいけない」と本氣で考えるようになりました。その時のことは、今も深く胸に刻まれ、折にふれて思い出します。あれ以来、約三年たちますが、いつか後藤田先生に「氣が出るようになったな」と言われるようになりたい、そういう思いがずっとあったような氣がします。

 後藤田先生にはじめてお目にかかったのは、二〇〇七年の一月でした。受講した氣圧療法入門コース第二回目の時で、講師の荒川先生が都合でお休みされ、代わりに担当されたのが後藤田先生だったのです。セミナースペースの椅子に腰掛けておられた先生の、そのヘアスタイル、眼光、物腰など一目見て、ただ者ではないオーラを感じました。
 その時の授業は、呼吸法、意志法、統一の印、合氣道のつぶし系の技などから氣の原理を解説し、氣圧のポイントを指導するというもので、非常に多岐にわたる内容だったと記憶しております。ただ、右も左も分からない状態でしたので、一つひとつがいかなる意味をもつのかは皆目分かりませんでしたが。
 お話をされる先生の表情は大変明るく、身のこなしは颯爽とされていました。氣圧と心身統一合氣道を身につけ、氣の原理を実践していることが愉しくて仕方がない、という氣持ちが伝わってくる、その語り口の快活さに強い印象を受けました。しきりに、体の動きを軽くし、柔らかく動くということを強調され、色々と実演して見せてくださいました。私たち受講者の上げた腕を、魔法のように下ろして見せたり、統一体がいかに強いかを実証するため、立ち姿や正座の模範を見せてくださいました。その時驚いたのは、寝転がって足の方を持ち上げると、先生の体が棒状になってふわりと持ち上がったことです。
「統一体で寝とったら、こないなるんですわ」
 ア然としている我々受講者に対して、先生は面白そうに他にも色々とやって見せ、氣のことが分かったら、いかに生活が愉しく便利になるか、ということを熱く語ってくださいました。先生は職を退かれてからこの道へお入りになったということで、
「もうかれこれ二十年近くなりますか。やればやるほど、深くなってきて、面白さが分かります」
 その言葉には実感がこもっていました。私は入門コースを受けて、チョチョッと技術を身につけようなどと考えていた自分の浅はかさに恥じ入った次第です。そして、クラス終了間際に、先生が言われた一言で、こういう方がおられるのなら、自分も正式に氣のことを学んでみたいという氣持ちが高まってきたのです。
 後藤田先生は統一体を正しく学べばいかに生きるのが楽になるかを繰り返し強調され、最後にこう言われました。
「私も若い頃は色々と難儀もしましたけど、氣の世界に入ってからホントに楽になりました。今は人生軽い、軽~いですよ」

                風海

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氣で持つ

 早朝、合氣道を習っている道場で毎週行われている「息心の行」に参加する。
 息心は井上正鉄(まさかね)の神道禊教に起源を持つ呼吸法の行である。三十分くらい鈴を振りながら「と・ほ・か・み・え・み・た・め」と大声で連呼するというもので、終わると声がかれるが実に気分がすっきりする。

 そのあと、H先生、Oさんと共に第九体技(正面打ち)まで練習し、I原先生、Y田先生を交えて皆で喫茶店に行く。Y田先生と帰りが一緒になったので、「氣で持つ」ということについて質問した。肉体的な力ではなく、「氣」を通してものを持つことを「氣で持つ」と表現する。何であれ力を抜いて、ふわっと持つべし、と教わるのだが、相手がいるとなかなかそうは行かない。なんでもすぐに答えを得るのは良くないが、一人で考え続けていると次第に五里夢中に入ってゆくので、こういう場合は素直に聞いたほうがいいと思う。

 先生の解答はシンプルだった。「心を、持つところに止めないこと」。そうして、心でまず相手(物体も同様)を持ち、それから手を添えるのだと言う。その上で、相手に氣が通っていることをイメージする。あるいは、氣で相手を包み込む。まず意識が先行するのである。大事なのは肉体を忘れて、自分を純粋なエネルギーだと思うこと。その意識を反映したものが、すなわち身体なのである。

 合氣道はおもしろい。うちの道場(団体)だけかもしれないが、先生方皆さん言うことがどこか仏教じみている。明らかに宗教などとは無縁そうな人も、お釈迦様の言葉にそっくりなことを言うのである。

 Y田先生も言われた。「とらわれてはいけない」。対象にとらわれると、そこで氣が止まる。氣が止まると何も出来なくなる。そして肉体を超えるエネルギーを実感できたところから、「氣」の話は始まるのだ。そこからは、いかに「しずまっている」かが分かれ目となる。

 そしてまた、宇宙の果てまで氣を出せと教わっている。宇宙大の自分を構想せよと言うことである。そうでなければ投げられない。澤木興道老師も「天地いっぱいの自分」ということを強調されている。

 合氣道をやっているということは、つねにそういう「思想」に触れ、かつ実践し続けていると言うことである。体を動かしながら、同時に哲学もできる、だから飽きないのだと思う。

                風海衛門

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