聖地見物

広田神社参拝記

 ふと思い立って、西宮にある広田神社にお参りした。官幣大社で、天照太神の荒魂(あらみたま)が鎮まっているところである。

 一の鳥居をくぐって参道を歩いていると、工事現場にぶつかった。元境内だったらしいところにマンションが立ち並び、参道がところどころわきへ入る車道によって寸断されている。生玉神社も、鳥居から境内までの参道が分断されていたり、周囲にホテルが林立して、宮司さんが怒っていたという話を聞いたことがあるが、都会の神社の宿命なのだろう。

 数百メートル歩いたところで、左手に灯籠が見えてきて、その向こうに巨大なしめ縄の張られた石の鳥居があった。それをくぐると、ぐっと森厳な雰囲気が増してきた。

 そこから少し石段を上ったところの正面に手水舎があり(近づくと自動的に水が出はじめた。どこにセンサーがあるのだろうか)、拝殿は、右手にあった。拝殿まで、街路にある鳥居から二度折れ曲がる形になっている。主祭神は天照太神で、神功皇后との関係が由緒書きに記してある。そのほか住吉大神など四柱が脇に祭られ、本殿の左手には五つの末社が鎮座していた。

 神社は本体そのものが神様だといわれる。拝殿を望むスペースは、それほど広大ではないのに、感覚的に広々としていて、清々しい氣に満ちていた。そこにいるだけで氣持ちがいい。こういう神社はあまりないと思う。

 旧正月にお伊勢参りをしようと思っていたので、この度事前のご挨拶ができてよかったと思う。あるいは、神様が面通しの意味で招いてくださったのかもしれない。

     風海

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北の戎

えべっさん寒波で西宮でも小雪がちらついています。
さて、一月九日、十日、十一日は十日戎が開催されています。
えべっさんと言えば西宮神社のえべっさんが有名です。
今年も祝日と重なっているので、さぞかし大勢の参拝客が訪れているでしょう。
行ってみたい気持ちもありますが、こんな寒空ですし、昨年、あまりの盛況ぶりに参ってしまったので、今年は穴場の十日戎詣りです。

あまり知られていませんが西宮には、えべっさんをお祀りしている神社がもう一か所あります。
西宮神社から三キロほど山手にある越木岩神社です。
越木岩神社がなぜえべっさんと関係するのかというと、江戸時代に西宮・円満寺の僧が西宮神社から勧請して当所にお祀りされたということで、現在では北の戎と呼ばれています。

普段と違って夕方にも関わらず、数人の参詣者が見られます。また境内には福笹販売所や安鯛おみくじなるものがありました。
安鯛みくじは釣竿で鯛の形をしたおみくじを釣り上げるという趣向。さっそく一匹釣りあげましたが、結果はガーン。(ρ_;)

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(左:安鯛みくじ。右:噴水も鯛!)

それはさておき、この越木岩神社。現在では手前の社殿に恵比須様がお祀りされていますが、その奥にご神体の甑岩が鎮座しています。
江戸時代の『摂津名所図会』には、「祭神巨岩にして倚畳甑の如し」とこのご神体が記されています。倚畳(いじょう)とは積み重ねた畳のこと。甑(こしき)は、お米などを蒸すのに使う器具。いわゆる蒸籠(せいろう)です。
同書には山崎宗鑑の「照る日哉 蒸すかと暑き甑岩」という句が掲載されていますが、その様子からは551の蓬莱で豚まんを蒸してる光景が思い出されます。(卑近な例で失礼します。)

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私にとっての越木岩神社は日課のウォーキングコース。
九日は、いつもと違って社殿付近は「商売繁盛でササ持ってこい」の音楽が鳴り響く賑やかな雰囲気でしたが、杜のなかの甑岩は静謐な雰囲気を保っていました。

昼でも薄暗い木立のなか、ご神体の上だけはぽっかりと天が開けています。その上空へ、岩の割れ目に生い立った樹木が細い体を伸ばしています。辺りには鳥のさえずりも聞こえ、明らかに空気の流れが違うのがわかります。霊気を身体いっぱい吸い込んで、おみくじの悪運を払い去ることができました。

 空味

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おいしい?百味供養

昨夜の御逮夜に続き、4日は旧正御影供の当日。
午後1時から壇上伽藍の御影堂で法会が行われた。法印さまが弘法大師の御名代として御衣をまとって御影堂に入り法要が始まる。

昨日、御影堂内で空海のお弟子さんの画像の前に黄色いパプリカのお供え物があったと書いたが、これは「百味供養」といって、お餅のほか、100種類もの野菜を集めてお大師さまに奉納する企画のようだ。(金剛峯寺HPより)

改めてじっくり見ると、大根やにんじんといったお供物の定番野菜のほかに、セロリ、ズッキーニ、ホワイトアスパラガスも見える。なかにはスーパーの野菜売り場では見たことのないような野菜も並んでいる。

奥の院では弘法大師の御廟に現在でも毎日2回、「生身供」と呼ばれるお膳が運ばれる。もちろん精進料理だが、最近ではパスタも召し上がるようなので、こんな変わったお野菜も楽しいでしょうね。

[1:御影堂内、空海の十大弟子図の前に並ぶお供物]

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[2:左上のお膳にはセロリが。右上の野菜は何でしょう?]

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[3:下段左には菜の花、白い酸漿。]

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法要の最後には散華があり、私も一枚いただくことができた。「虚空尽衆生尽涅槃尽我願尽」の言葉が裏面に印刷されている。
高野山のゆるキャラ、こうやくんにも会えたし、弘法大師のパワーがいただけたかな。

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空味

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旧正御影供

旧暦3月21日は弘法大師・空海が永遠の禅定に入った(入定した)日である。今年は5月4日がその日で、旧正御影供(きゅう しょうみえく)と呼ばれる行事がある。

旧暦3月21日の前夜は、御逮夜(おたいや)で、高野山の壇上伽藍では法要が営まれる。この日は一般人が普段は入ることのできない御影堂(みえどう)の内拝ができるので、夕方から内拝の整理券を求めて壇上伽藍に行く。

今年はゴールデンウィークと重なったので、伽藍は結縁灌頂を受ける参拝者や法会の準備をするお坊さんたちで賑わっている。5時前には100人ほどの行列ができていたが、20分並んで整理券をいただく。夜8時過ぎに御影堂に来てくださいとのこと。

御逮夜の法会は夜7時から。御影堂の内拝は8時から始まった。
8時に行くと、すでに整理券を片手にした人々で御影堂付近は埋めつくされている。
大勢の人と一緒に御影堂に入る。
御影堂は弘法大師の真影がお祀りされている高野山でも大切なお堂である。

初めて御影堂に入った。
壁面には弘法大師のお弟子さんたちの肖像が描かれていて、その前にはお供物が赤い御膳に並んでいる。
黄色いパプリカ発見!
お供物も時代とともに変化するんだなあ。

正面に廻って合掌する。ゆっくりお大師さまと対面したいところだが、一礼したら次の人に代わってくださいとのこと。ゆっくり拝むことはできなかったが、ちらっと、内陣の奥に布で覆われたものが拝見できた。

壇上伽藍ではほかの諸堂も特別に開扉されていて、なかの仏さまたちを拝することができる。闇夜のなか、ライトアップされた仏さまたちを巡っていると心が定まってくる。

近年は外国からの参拝者も多い。
大日如来の説明を熱心に、日本の僧に問うている紳士の側で、手を合わせ「ありがとうございます」と一礼して帰路についた。

  空味

ライトアップされた大塔

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春日のもり

 春日大社は心地の良いところだ。
 奈良公園から神域へ入ると、木々の密度が若干変わるような気がする。山全体がご神体なのである。

 下の禰宜道を歩いていると、梢を風が伝ってゆく気配がする。風は時に下まで吹き抜けてきて、早春の息吹を感じさせてくれる。たまにその揺れる空気の密度が、細かくてほんのり暖かいことがある。あれは神様が動いているのだろうか。ふっと、心を吸い寄せられるような気がする。そういうとき、体がのびのびして、神妙で心地がよい。

 神社などへ行って、お参りするのに本殿のほうばかり向いているのは間違いだ、という話をよく耳にする。神様はその時の気分で、どこに居られるか分からないからだそうである。だから、神社へ行ったら、とりあえず本殿の周りをぐるっと回ってみて、全方向に「神気」を感じようとしなくてはならない。

 神域に入るときから、心を澄ましておき、木や森があれば、梢を見上げて、神様を感じてみる。これが楽しい神社へのお参りの仕方ではないかと思う。そして、お参りの仕方も、注意が必要である。

 大体お賽銭を投げ入れ、「商売繁盛、家内安全、学業成就…etc,etc」と念じるのが普通だが、そういうことをいくらやっても神仏は答えてくれないのだそうである。
 炊飯器や自動ドアなどいくつもの発明をしたことで知られる政木和三さんの本に、「神仏が願いをかなえることはない。神仏の前では手を合わせてひたすら、今現在幸せです、ありがとうございます、と御礼を言うと、自分の中にある神仏が、生命体を活性化してくれ、幸運となる」という意味のことが書かれていた。

 そういうことを指摘する人は他にもいるから、おそらくそれが真実なのだろう。ぼくは頭上を神様が風と共に通り抜けるのを感じると、心の中で「ありがとうございます」と言ってみた。すると、なんだかいい気分になっている。これからは、どこへ行ってもそういう風にお参りしてみようと思う。

         風海

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信仰心を考える-現世利益か後生大事か-

  信心深いとはどういうことだろう。信仰心とは一体何なのか。改めて考えてみると、一般に言われている信心というものが、どうもあやふやな気がしてならない。信心深いと言われる人が何をしているかというと、お寺や神社や教会に詣で、神仏に手を合わせる、又自宅に祭壇を作ってお灯明を上げて朝夕祈っている、といった感じだろう。そこにあると確実に言えるのは、神仏に対する尊敬の念だろう。
  では、「信」はどこへいったのか。そもそも、信仰における「信」とは何なのだろう。そこにあるのが尊敬だけならば、「神仏は尊し、神仏を頼まず」といった神無用論者宮本武蔵の態度が一番偉いことになる。
  はたまた、神社などで絵馬を書き賽銭を投じて「所願成就」と祈っている人はどうなのだろう。何か頼み事をしている姿に、我々は「欲深さ」を感じても、あまり「信心深さ」は感じない。ひろさちやさんは「神様仏様に頼み事をしてはいけない」という。なぜなら、神仏を自動販売機のように「利用」することになってしまうからだ。してみると「現世利益」は一段低いものということになるだろう。そしてそれをうたっている神社仏閣も。
  しかし現世利益って、本当にそんな下品なものなのだろうか。「お金がほしい」「試験に受かりたい」という希望と、「悟りを開きたい」という願望との間には、どのような差があるというのだろうか。

<渦巻き型銀河>               

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「現世利益」といったとき、「お金がほしい」というのと「悟りを開きたい」というのは、実はそれほど違いがないのではないか、とぼくは思うのである。なぜなら「悟り」が現世で達成されるなら、悟った本人が一番嬉しいに違いないのだから、それは立派な現世利益ではないか。
  また、「利益」は、それが果たされる限り、どこまでいっても「現世利益」でしかない。つまり、この世では迷っていても、あの世に行って「悟り」を開いたとすれば、本人にとっては行った先が「現世」なのだから、やはりどこまで行っても「現世利益」なのである。
  それなら、今生きているこの世でいい目を見たい(お金がほしい、試験に受かりたい、世界平和に貢献したい、悟りを開きたい)といった願望を抱くのは悪いことではあるまい。
  では、問題の「信仰心」との兼ね合いをどうすればいいのか。こう考えてはどうだろう。自分の願いは己一身の欲望に止まるものではなく、必ずや神仏の御陰をもって広い世界へと開いてもらえる、と信じ安心していられること、それこそが「信仰心」というものではないだろうか。
  世の中を少しでもよくするために、自分は神仏に使われているのであり、自分の願うことはすべて神仏の心から発していると信じることができれば、思うことすべて可ならざるはなく、日々心穏やかに生きていけるはずである。
  すべては、そこの所を本当にリアリティーをもって「信じ」きれるかどうか、という点にかかっていると思う。様々な祈りや、瞑想などは、その確乎たるリアリティーを形成するためのものなのである。

      風海

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お不動さん

 お不動さんは、なぜ怒っているのか。

 ということに、疑問を持った。何に対して、どれくらいの怒りをもっておられるのだろうか。とにかく、どのお不動さんも、お顔を拝見する限りでは、その怒りは半端なものではない。怒られているのは、私だろうか。観音様にあんなお願いしたから、突然乱入してくる体育の先生みたいに、代わりに出てきて、「こらっ」という按配なのか。それにしては、「一願不動尊」なんて、お願い事をかなえてくれるというので、人気がある。

 ふつう、あんな怖い顔をした人に、「えらいすんませんけど、アレちょいとコナイなりまへんやろか」なんて、気安くいけません。

 お不動さんはなぜ怒っているのか。

 ちょっと腰をすえて考えてみたいと思います。

    風海

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楽業成就

25日は天神様の縁日ということで天満の大阪天満宮にお参りしました。宇宙文化研究所を創設したばかりですし、私たちの学業成就を祈念する意味もあります。

1月は年始の縁日「初天神」です。拝殿には他の日には見られない特別な神饌がお供えされていました。(↓神饌の梅の小枝)

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夕方からは嘉門達夫のライブと阪神の若手選手による福玉まきがあるそうで、準備で何やら騒々しい雰囲気です。
本殿を参拝できる登竜門の通り抜けも行われていたのですが、こちらは受験生向けの企画で、合格祈願の絵馬か学業成就の御守りを買わないと通れないとのこと。
出世の沙汰もやっぱり金次第なのかと興醒めしてしまいました。

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そんな中、心を和らげてくれたのは、境内の梅の花です。

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 東風ふかば
  匂ひおこせよ
   梅の花 
  あるじなしとて 
   春な忘れそ          

   菅原道真

さて、天神さんから梅田に向かって10分ほど歩くと真言宗のお寺、太融寺に着きます。
繁華街のHotelが隣接しているアリガタイ立地です。

このお寺には「一願不動尊」がおられます。

私も職場の人間関係に悩んでいた頃には何度か足を運んでお願いしていましたが、今、こうして心身元気にしている所を見ればご利益はあったのでしょう。

毎月28日のお不動さんの縁日には、梅田に近いということで、お参りの人が絶えません。
この日は10時、2時、4時の三度のお護摩があり誰でも参加できます。お堂のなかでお坊さんが護摩の火を焚き、参拝者が般若心経や不動明王の真言を唱えるのですが、燃え上がる炎、読経、太鼓のリズムで気分が高揚します。きっとこれが参拝後の爽快感につながるんですね。

先に訪ねた天満宮に比べると、聖俗混淆した中にあるからでしょうか。手を合わせていると、天満宮よりも心の高まりが感じられます。
さまざまな願望欲望の渦巻くなかに立っているお不動さんです。

「楽業」成就ということであれば、天満では繁昌亭に、キタでは太融寺とその周りの施設に行って人生と「問いを開く」ための幅を広げた方がいいのかも知れません。

 空味

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神仏依存症

友人から「本当に信仰心あるの」とつっこまれて
落ち込んだ。これでも人並み以上には神仏を信じて日々
手を合わせてお祈りしている。
彼曰く、私はお釈迦さまや弘法大師の説く本来の教えが
理解できておらず、さらにその教えを聞いても実践しようと
しないのは、本当の信仰じゃないということらしい。
ああお大師さま。
これまでの私の信仰心って何だったんでしょ?

そういえば、密教の修行である四度加行(しどけぎょう)
を受けたイギリス人の友人からもこう言われ、答えられ
なかったことがある。
「あなたは、仏教の信者でしょう。だったらなぜ加行を
 受けないのですか」

〈なぜって。だって私には必要ないような…。
 加行はお坊さんの資格が欲しい人だけが受ければいいもの
 じゃないの…〉

彼女によれば、護摩行をしていると自分の中にあるモヤモヤ
したものが解消され、精神が研ぎ澄まされていくらしい。
行を終えた彼女の顔は弥勒菩薩のように穏やかで、
まぶしかった。

――ふと周りを見渡せば、右も左も仏さまのご利益を求めて集まる衆生。

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ここは、西宮市の門戸厄神東光寺。毎年1月18日、19日は
厄除大祭が行われている。門戸厄神という名前から神社だと
思われることが多いが、れっきとした真言宗のお寺である。
私も例年の習慣で、お参りせねば気が落ち着かず、厄年でも
ないのに厄払いにやって来たというわけである。
厄神明王の前でお賽銭を入れ、手を合わせる。
〈どうぞ、厄を払ってください。厄神さま〉
こんなに信心深いのに、何が違うんだろう。

加行を受けた友人とご利益を求めてお参りする私。
どちらも、仏に向かっていることには変わりはない。
でも向かい方はだいぶん違うようだ。

どのように違っているかというと、私は家内安全、良縁成就、
学業向上etc.ご利益を求めて神仏に取りすがっている。
「なんかええもんおくれー」というスタンスだ。
私の心だけが強く神仏に向っているのである。

では、友人の場合はどうか。
仏の前でclear になる。静観している。
空海は「自分の心のなかにこそ仏がいる」と説いているが
彼女は自分のなかの仏と向き合っているのである。

求めて与えられるのを待つのではなく、
自分が本来持っているものを十分に開花させることが
「悟り」に繋がるのかも…と思いつつも、依存する心は
なかなかしぶとく残っているのです。

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          孫悟空な空味子

逆立ちが上手なお猿(厄除大祭で)

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東寺の行道

一月十一日、京都の東寺(教王護国寺)に行った。空味さんの縁者が参加している「後七日御修法(みしほ)」の行道(お坊さんの行列)を見るのが目的である。御修法とは寺内の灌頂院において災厄払いの息災護摩壇と招福の増益護摩壇などを設けて、おもに鎮護国家の儀式を奉修するものである。

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十二時半ごろついたが、一時半の行道までにはまだ時間があったので、その場所だけ確認しておこうと結界の張られた玉砂利の道へ行きかけたとき、丁度寺務所の門から現れた若い僧侶が、まさに空味さんの縁者であった。多分直接には会えないだろうといわれていたので、ちょっとした驚きだった。

そこで正しい開始時間を聞き(はじめ「二時から」と言われたが、後に空味さんの携帯に連絡があり「一時半」と訂正された)、特別拝観を行っていた五重塔、金堂、講堂を見学する。そこで今度はぼくの知人、道場でお世話になっているSさんにばったりはち合わせした。自慢ではないが、ぼくは外であまり知った人に出会わない。ぼくを見かけたよ、と後で言う人はいても、その時こちらは気づいていない。とにかく、何の打ち合わせもなく人に出会うのは、年に数回あるかないかである。

場所がらが寺でもあるし、だから余計に「ご縁」を感じてしまう。そういえば、御修法の行われる灌頂院の「灌頂」も、大日如来との「結縁」を行うための儀式である。この宇宙は「縁起」によって成り立っているとはお釈迦様の創見だ。このご縁ということをつらつら考えてみるに、非常に奥深いものを感じる。なぜなら「ご縁」のひとことで、「自己」を中心とした全宇宙のネットワークが、即座に立ち上がるからである。その網の目のどの部分も、この宇宙が成り立つためには欠かせない。

ご縁には大別すると二種類あって、一つが「出会う」であり、もう一つが「出会わない」である。ともすれば前者ばかりが特化されがちであるが、後者の重要度は前者におさおさ劣らない。なぜなら、ぼくは今生きているが、それは事故や病気に「出会わなかった」からである。

また「出会う」を顕在意識とすれば、「出会わない」は潜在意識に相当しよう。そのボー大な可能性の中から、氷山の一角のように浮かんでくるのが「出会い」というものだから。そう考えると、一つひとつの「出会い」の意味深さが思いやられる。

この度の東寺訪問は、そういうことを考えさせられる機会だった。そういえば、弘法大師空海も、千載一遇のチャンスをとらえて入唐し、長安青龍寺の恵果阿闍梨から密教を伝授されたのである。お大師様は「すべて想定内だよ」と言われるかも知れないが。

Dscn5602_4 講堂でおみくじを引いたりしているうちに、結界の近くに人群が出来はじめている。一時半丁度に二列に並んだ僧侶の行列が寺務所から現れ、道俗の男女がこぞって「南無大師遍照金剛」を唱和する。ぼくもSさん空味さんとともに合掌した。

それほど寒い日ではなかったはずだけど、帰りのバスに乗って河原町へ着く頃、鼻水が出はじめ、くしゃみが止まらなくなってきた。熱もあるのか、妙な寒気がする。河原町の「月ヶ瀬」本店に入って、粟ぜんざい(美味である)を食べたが、体が温もらない。追加でお汁粉(美味である)を頼み、お腹は満たされたが、まだ寒かった。明らかに風邪を引きかけている。しかし、それは悪いことではなく、この冬を乗り切るための「免疫」をお大師様に頂いたのだと思う。風邪の最大の効用はデトックスなのだから。

   

              風海衛門

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