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2012年7月

文楽について

  橋下大阪市長が文楽を鑑賞し、技芸員の方々との会談で、守るべき文化財であることは分かったが、ラストにぐっとくるものがなかった、というような論評をし、これを何とかできない限り金は出せない、と言ったそうである。

  この橋下発言について、賛否両論あると思うが、ぼくはどうも根本がおかしいと感じている。橋下さんは市長であり、市長と言えば行政のトップであって職分は政治家だろう。政治家は施政方針の決定や賄賂をもらって私腹を肥やすのが仕事であり、文化や芸能について論評を行うことではない。

  行ってはいけないというのではない。市長として発言するのであれば、それは全て政治的な発言となるわけで、そうでなければ正式な劇評論ではなく、ただの感想のはずである。劇評論にはその筋の専門家がいて、彼らに任せておけばいいのである。どこそこ大学の文学部教授とか、文芸評論家とか劇評論かとか、いろいろ居そうではないか。そういった連中に意見を求めれば、「専門家」として、正しく文楽を批評してくれると思う。

  それを受けて、文楽を評価するというのが政治家としての在り方で、橋下氏個人の見解を政治家としての発現にかぶせるのは、この際ルール違反ではないか。そうではなく、もはや問答無用で文楽をつぶそうというのであれば、「ぐっとくるものがない」程度の胡乱な言い方ではだれも納得しないだろう。もっと厳密に学問的な批評をしてもらわなくては収まらない。

  つまり、橋下氏の発言は職責を超えた単なる感想であり、政治的な効力は全くないと思う。文楽側の対応は、いたずらに軽挙妄動して右往左往するのではなく、何百年続いてきた確固とした伝統芸能である、というようにどっしり構えていればいいだろう。心配しなくても文楽はつぶれない。そういう意味では、「守るべき文化財」という言い方も間違っているのではないか。

  文楽は、日本が誇る世界の文化的共通貨幣である。新劇や映画は、まだ世界のメジャーをうならせるには程遠いけれど、文楽は堂々の横綱相撲、外国のどんな文化人でも頭を下げるという代物である。ロラン・バルトの『象徴の帝国』は、文楽を見た哲学者の驚きが発端となって出来上がった本である。

  どうしても、金が大事というのなら、金では買えないほどのものをあえてつぶすことで生じる損失を計上してみればいい。後世の人から、世界レベルの日本文化を一つ奪おうというのである。そうまでして微々たるお金に執着する橋下氏が、その多大な負債に堪え切れるというのであれば、ためしに潰してみるのも一興かもしれないが。

    風海

 

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恐るべきだったのは・・・(承前)

  前回の記事で、バイキングで食べすぎたという話を書いた。しかし、問題は量ではなかったかもしれないことが判明したのである。

  先日、友人夫妻と西宮市某所にある韓国料理屋へ行った。客のほとんどが女性客という店で、料理は野菜が中心であり、油もあまり使っていなかった。そこでぼくは、またぞろ少しだけ食べすぎたのだったが、今度は大丈夫だったのである。

  結局、点心の中身の肉と油(脂)が問題だったのではないかと思う。このところ極力肉をやめて食べる量自体も減らしてきているので、味にも成分にも敏感になっている。らしい。

  ともあれ、低価格で大量に食べようという発想をやめるべきなのだろう。そういう形態がこよなく好きだという人に文句を言うつもりはないが、自分のライフスタイルの中から、そういう体質に合わない食事を排除することは必要と思う。

  しかし、以前はビアガーデンに行って焼肉をつまみながら冷えたビールを流し込んで平気だったことを思えば、ずいぶん軟弱な体になったものだと思う。合氣道のY先生は常々、一食抜けばその分だけ生き物を殺さなかったことになるから、陰徳になると言われている。

  以前牛乳(乳製品)に関する記事を書いたら、最近ショックを受けたらしい人から否定的なコメントをもらったが、その悪意に満ちた文章から察するに、こういった問題はかなり微妙であるということがわかる。個人の趣味嗜好と、経済活動、そして生命維持、生命倫理などがからまっているのが「食」の世界である。

  本当に恐る(畏る)べきなのは、いかなる食材であれ、他者の生命を体内に取り込んでいるという事実なのかもしれない。月並みであるが、感謝と懺悔と思いやり、これを想起しながら有難くいただくということが重要だろうと思う。バイキング形式のレストランは、ぼくにとってこの三者を想起しにくい。だから行かない方がいいのであろう。あくまでもぼく個人に限ってであるが。

   風海

 

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バイキング恐るべし

  先日街に出た折、丁度時分だったので大阪市内にある某商業ビルのレストラン街に行った。休日であり、ものすごい人出でごったがえしており、どこも行列ができている。できていない店はなんとなくまずそうに思えるから不思議である。で、そこにあった中華料理のバイキングに、連れが行こうというので行ってみた。

  点心を中心に色々な料理が取り放題で、目移りがする。しかし、食べ放題は以前ひどい目に遭っているから、今度は無事に帰ろうと思って、極力、量を加減しながら食べた。つもりであった。

  しかし、最近は食事の量を以前よりも減らして、油ものなども取らないようにしていたので、そこへギトギトの中華を入れたものだから、結果は撃沈であった。席を立って帰り始めたころから強烈な眠気が差し始め、電車の中ではほぼ寝ていた。

  それだけでも足らず、うちに帰って午後いっぱい再起不能であった。食べた分量というよりも、体感では油にやられたという気がする。とはいえ、やはりバイキング形式というのは、心理的にどうも貧乏性を助長するところがあって、つい要らないものまでとってしまうのだ。

  また、ぼくは好奇心派だから、気になるものがあると、味を聞いて見なくては収まらないのである。結果的に少し食べすぎることになる。ここで悠然と構えて、腹八分目で抑えることが出来れば、それは大人(たいじん)といえる。

  まあ、今回は端無くもぼくの内臓機能の低下が顕になったのであるが、周りでは女性や年配の方もいて、ぼくよりもよほどたくさん食べていた。そういう頑健な胃腸を持っていた時代が懐かしくもある。しかし、バイキングというのは、本家のバイキングもそうだったであろうように、殺気立った人たちが縦横無尽に移動するので、どうも落ち着かないことおびただしい。

  そういう雰囲気の中で食事をするというのも、精神にかける負担が大きくなるのであろう。そのうち小金持ちになったら、ちゃんとウエイターが案内してくれて、値段のついていない、産地と銘柄だけのワインリストが差し出されるような、そういうお店に行くほかなさそうである。それなら食べすぎることも、心をかき乱されることもなさそうであるから。

       風海

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身体AとB

  先日少し疲れ気味であったとき、少し奇妙なことがあった。頭は重くて、胃のあたりが少し気持ち悪い感じであり、普通こういう時道を歩いていると、身体が重くて足を引きずるようになるはずである。
  ところが、不調だと思いながらも、足は楽々と前に進み、腰のあたりを誰かに押してもらっているような軽さがあった。

  これは一体何だろう。歩きながら不思議な気分になっていた。心と身体が相反するということはたまにはあるが、体の状態に二重性が同時に起こるというのはどうしたことか。一方で不調を感じつつ、一方で運動行為が絶好調というのだから、やはり奇妙である。

  もしかしたら、身体にはAとBの二つの領域が存在し、どちらかがおかしくなってもどちらかが生きているのではないか。あるいは、心と身体を明確に分けることができないように、物質に近い領域の身体と、非物質的な身体があり、通常どちらかが優先になっているのだが、その時はたまたまどちらもオンの状態になっていたのだろうか。

  これが意識的に使えると便利だと思う。そうなれば、具合の悪い方を休ませて、いい方を使って活動するというような技が使えるのではないかと思うのである。しばらく研究してみたい。

     風海

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電磁波

  先ごろ「Bhado」(美波動)という電磁波対策グッズを教えてもらって購入した。これは、キャッシュカード大(商品の種類によって形状や大きさは異なる)のアルミ合金版で、ちょっと見たところ単なるプレートである。
  何でも物質の斥力の原理を用い、正のエントロピーをもつエネルギーを中和または緩和し有益なエネルギーに変えるというふれこみである。

  パソコンや携帯電話の電磁波を防ぎ、分電盤や車のエンジンに貼り付けると、電気代や燃費が安くなるというのである。その他身に着けると顕著な効果として、体温が高くなるとか電磁波過敏症が治まるとか、あるいは煙草やコーヒーや食品の味がまろやかになるという。

  コーヒーで試したところ、確かにえぐみがなくなった。知人が飲んでいたインスタントコーヒーを上に置くと、粉っぽさが消えて苦味が減ったといわれた。

  この製品がどういう方法で作られているのか皆目わからないが、何かの効果らしきものはあるらしい。分電盤に貼ってみると、ある部屋のずっと暗かった電気が明るくなった。あるいは何か他の要因だろうか。

  製作者は広島に本拠を持つたぶん中小企業で、川上さんという社長の顔が印象的だった。額に白毫相のような大きなイボ?がある。これは商品開発をし始めてから盛り上がってきたものだそうで、吉相だろう。ちょっと異様な感じもしないではないけれど、歴史的にも偉人はどこか常人と違う相を持っている(釈迦、孔子、劉邦など。朱元璋に至ってはお化けのような肖像画が残っている)。

  件の知人には、「えっ、こんなものに○千円も投じたのか」と驚かれたが、ぼくは少年の頃から孤狸庵先生遠藤周作の読者である。好奇心は永遠なり。何が悪いか。

     風海

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