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無限責任というもの

  心斎橋で起こった通り魔事件の犯人は、当日銀行口座から全額近い20万円を引出している。そして、その金額のあまりの少なさに将来への不安を募らせ、現状に絶望して、犯行に及んだ。捕まったとき、お金はほとんど手つかずで残っていたという。

  事件そのものについて云々する資格はぼくにはない。ただ思うのは、なぜ金を使わなかったのだろうということである。20万円もあれば、例えば高級旅館に泊まり、フランス料理のフルコースでも食べることができたはずだ。またはバーにでも行って、バランタイン、グレンリベットなどの30年物やキングズランサムとか、ポール・ジローとか普段飲めないお酒を飲んでもいいだろう。その他、あれくらいまとまった金額があれば、やってみたいと思うことなど無数に思いつきそうである。
  いや、むしろそういうことを思いつかないくらい、追い詰められていたということか。

  この殺人犯は、どうしてそれほどまでに自分を追い詰め、行き場のない不安やわだかまりに押しつぶされてしまったのだろうか。親しい人もいただろうに、と思うのだが。

  日本は無限責任を追及されるが故の無責任社会であるという説がある(橘玲『(日本人)』幻冬舎、2012)。説得力のある意見だ。また、同書では、日本人は徹底的に世俗的で個人主義であり、アメリカ人よりも勝手で、共同体を忌み嫌うと分析する。

  「血縁や地縁のしがらみが嫌われる日本では、社会保障(安心)をもたらす共同体はたまたまいっしょになったひとたちでつくるしかない。これが「イエ」で、学校や軍隊、工場や会社がひとびとを外の世界から保護してきた。
  しかしこれは、日本人の人生にきわめて大きな困難をもたらした。イエは安心を与えてくれると同時に、拘束するのだ。・・・日本人はイエを求め、イエを憎んでいるのだ」(365‐366頁)

 件の通り魔には、求め憎むべきイエがなかったのであろう。これからの将来をすべて「自己責任」として引き受けなくてはならないと考えた途端、不安と絶望が膨れ上がったのである。結局、友人に裏切られて云々の供述は、出まかせだったのではないだろうか。

  ただ、この人をかくまで追い詰めたものの正体が、何となくわかるような気はするのである。

   風海  

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