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2012年6月

杖の体験

  杖は、「ツエ」であり、この場合「ジョウ」とは読まない。合氣道には杖技があって、昇段試験には剣技とともに必須項目である。だからぼくもケンやジョウはしばしば振っているが、「つえ」を使うことはほとんどない。

  というよりも、これまで一度もなかったといっていい。それが今回介護ヘルパー2級の講座を受けてみて、授業の一環で肢体不自由な人の役をして、杖を持ってみて驚いた。ルールは左半身が利かないという設定で、杖を持ち介添えの人とともに教室を出て階段を上がって下りてくるというものである。

  本当に左が使えないと思って、左足にほとんど重みをかけまいとして歩くと、とんでもなく右への負担がかかる。階段まで行って昇って下りてくるだけで、右手右足の筋力の限界であった。本当に身体がゆがむかと思ったくらいである。

  そうやって歩いていると、「迫真の演技だね」と言う人がいたが、ほっといてくれ。この場合演技ではなかった。左が使えないという設定をリアルに表現すると、本当にあのぎくしゃくした歩き方になってしまうのである。

  自分でやってみてよく分かった。杖は実にしんどいものである。杖を突いてようよう歩いているお年寄りなどたまに見かけるが(父方の祖母もそういう人だった)、これからはできれば手を貸すなどしてあげたいと思う。

      風海

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あるシンポジウム(宴)

  先日、アレクサンドル・シマノフ氏のお宅にお邪魔した。シマノフと言えば、亡命ポーランド貴族の末葉で、1920年代セーヌの右岸において集成古美術の収集と歴史文献の渉猟に明け暮れたディレッタント、セルゲイ・シマノフの孫であり、祖父の遺志を引き継いで歴史を専門として(古美術品は借金のカタに売り払われた)、『1661年神話』などの著作が有名(?)である。奥さんは伊予の人。しばらく某大学図書館にお勤めされていたが、現在はフリーとなって韓国香港台湾などアジアの映画を研究されている。

   シマノフ家はこの度、T市にある瀟洒なお屋敷街に引っ越しをされた。裏はゴルフ場のある山で、よく風が通る間取りであり、一日中さまざまな鳥の声が聞こえるといううらやましい環境である。引っ越し完了して一月ばかりらしいが、書斎には未開封の段ボール箱が山脈をなしていた。研究者の宿命である。別の知り合いは、豪邸を建てたが、親子二代にわたる本のため、家の半分は書庫という人もいる。シマノフ氏はそこまでではないが、やはりすさまじい本に埋もれて、あわやおぼれそうになっていた。

  それはさておき。

  当日のお客は、ぼくと空味さんとK川さんの三人であった。K川さんは岡山の出だが、実家はもと神戸で貿易商をされていて、名家であった。曾祖父に当たる方が、借金の保証人などになって没落したとおっしゃるが、貴族は没落したときの、あの黄昏の空の美しさのようなたたずまいがいいのである。

  ボルドーのワインを飲みながら、ぼくは思い出していた。シマノフとはじめて会ったのは、1678年くらいであったか。その頃はシマノフとか風海ではなく、フランソワ・ジュリアンとか、ミシェル・ド・ランポンタンとか、そういう名前を名乗っていた。場所は、ルメルヴィル夫人のサロンである。夜会が終わり、居残ったぼくたちは、相手がなぜすぐに帰らないのだろうかと訝りあいながら何となく居続け、そして最後にその秘密を知ってからは意気投合したのである。
  その翌日の昼に、ばつの悪そうなルメルヴィル夫人を囲んでとった昼食のテーブルワインが、この度飲んだワインの味とそっくりであったのだ。

  ワインを飲みながら、そういう綺想がわいてきた。本当か、と言われると自信はないけれど、当たらずといえども遠からずではないかと思う。

  ところで、最近の物理学では、時間と空間は同じものであるという説があるらしいが、確かに楽しい空間というのは時間と一体であり、そして一瞬にして過ぎてゆく。アントニオ・サリエリのピアノ曲など聞きながら、皇室のゴシップなど話し合っているうちに時は流れ、そろそろ失礼しなくては、と思って時計を見ると、すでに家へ帰りついていなくてはならない時間であったのだ。

  シマノフご夫妻、K川さん、ありがとうございました。また近いうちにお目にかかりましょう。

   風海

 

 

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無限責任というもの

  心斎橋で起こった通り魔事件の犯人は、当日銀行口座から全額近い20万円を引出している。そして、その金額のあまりの少なさに将来への不安を募らせ、現状に絶望して、犯行に及んだ。捕まったとき、お金はほとんど手つかずで残っていたという。

  事件そのものについて云々する資格はぼくにはない。ただ思うのは、なぜ金を使わなかったのだろうということである。20万円もあれば、例えば高級旅館に泊まり、フランス料理のフルコースでも食べることができたはずだ。またはバーにでも行って、バランタイン、グレンリベットなどの30年物やキングズランサムとか、ポール・ジローとか普段飲めないお酒を飲んでもいいだろう。その他、あれくらいまとまった金額があれば、やってみたいと思うことなど無数に思いつきそうである。
  いや、むしろそういうことを思いつかないくらい、追い詰められていたということか。

  この殺人犯は、どうしてそれほどまでに自分を追い詰め、行き場のない不安やわだかまりに押しつぶされてしまったのだろうか。親しい人もいただろうに、と思うのだが。

  日本は無限責任を追及されるが故の無責任社会であるという説がある(橘玲『(日本人)』幻冬舎、2012)。説得力のある意見だ。また、同書では、日本人は徹底的に世俗的で個人主義であり、アメリカ人よりも勝手で、共同体を忌み嫌うと分析する。

  「血縁や地縁のしがらみが嫌われる日本では、社会保障(安心)をもたらす共同体はたまたまいっしょになったひとたちでつくるしかない。これが「イエ」で、学校や軍隊、工場や会社がひとびとを外の世界から保護してきた。
  しかしこれは、日本人の人生にきわめて大きな困難をもたらした。イエは安心を与えてくれると同時に、拘束するのだ。・・・日本人はイエを求め、イエを憎んでいるのだ」(365‐366頁)

 件の通り魔には、求め憎むべきイエがなかったのであろう。これからの将来をすべて「自己責任」として引き受けなくてはならないと考えた途端、不安と絶望が膨れ上がったのである。結局、友人に裏切られて云々の供述は、出まかせだったのではないだろうか。

  ただ、この人をかくまで追い詰めたものの正体が、何となくわかるような気はするのである。

   風海  

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インドの青鬼

  今日もビールの缶詰を飲んだ。「インドの青鬼」といって、18世紀にイギリスがインドを支配していた時代、インドへ向けての航海の間、悪くならないビールということで開発されたものだという。それを、日本で再現した。

  インドの青鬼は、ヨナヨナと同じ長野のヤッホーブルーイングの製品で、ホップの香りがヨナヨナに近かった。ただ、苦いと書いてあった通り、少々苦味がきつかったようである。

  ビール好きにはこたえられないとも書いてあり、これは旨そうだと思ったが、結論から言えば、ヨナヨナの方が好きかも知れない。エールとしてイギリスのアボットなどにも負けていないし、香りが高い割に料理の風味を邪魔しないのがいい。

  とはいえ、青鬼は記念すべきビールである。なぜなら、今日は酔いつぶれて寝ることがなかったからである。今日も350ミリ缶を半分しか飲んでいないから、量は大したことないが、青鬼はアルコール度数が7%もあるのだ。

  飲む前は、青鬼の姿がちらついてそのままノックアウトになったら困るなと思っていたが、そういうこともなく今に至っている。

       風海

 

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個人名

  この一週間に当ブログを覗いた人のうち、三人くらい「嶋中博章」で検索していた。ご存じの通り、このブログを見る人は少ないから、三人というのはかなりの割合ということになる。嶋中氏は近世フランス史が専門の、たぶんどこかの大学の研究者だと思うが、ためしに自分でも検索してみると、かなり上位に当ブログが表示されている。

  最も多いのは、嶋中氏が翻訳にかかわっている、クリスチアン・ジュオー『歴史とエクリチュール 過去の記述』(野呂康ほか訳、水声社、2011)という本の販売のページである。

  個人名を挙げると思わぬところから検索がかかることがわかった。しかし、他にも何人かあげているはずであるが、なぜか嶋中氏だけが検索件数トップになっている。そんなに人気のある人物なのだろうか。

  そんなに人気があって、なおかつ情報がないとなると、知りたいと思う人の数は潜在的にかなり多いという予測が立つから、ここでぼくしか知らない嶋中情報を書いておくと、多方面から喜ばれそうな気もするが、インターネットで検索するとなんでもわかるというような風潮が気に入らないからやめておく。素直に、知らないから、と書かないところがぼくらしい・・・。

   風海

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炭酸水

  ビールを飲むと酔いつぶれるという事態が頻発しているのでお酒にはうかつに手を出せなくなっている。ただ、その代わり炭酸水を飲んでいる。近くの店に売っているサッポロ「おいしい炭酸水」や「ゲロルシュタイナー」、「クラブハウスソーダ」などである。

  ゲロシュタはかなりの硬水で、あれくらい硬度があると、普通なら飲めたものではない。ところが、炭酸が入っていると、なぜか飲めてしまうから不思議である。水の味自体としては、もう少しまろやかな方が好みであるが、鉱物質に富んでいるので体にはよさそうな雰囲気である。

  とはいえ、日本にはあまり硬い水が存在しないので、日本人の身体には軟水の方が合っているだろう。ということは、あまり硬水を飲みすぎるとよくないかもしれないということである。中でもカルシウムが危ない。カルシウムは必須のミネラルであるが、摂り過ぎるとかえって悪さをすることがわかっている。カルシウムはマグネシウムと一緒に摂るというのは、今や常識であろう。

  それはともかく、この頃朝晩炭酸水を飲む。朝目が覚めて喉が渇くようになっているので、冷たい炭酸が心地よいのである。夜は風呂上りに一杯で、やっていることはビール党と同じである。構造は同じだが、内容が違う。つまり安く上がる。ゲロシュタはかなり高い方だが、それでも500ミリペットボトルが150円くらいである。ビールなら、350ミリ缶が250円以上はするだろう。

  ところで、来月「有朋遠方来」で友人がやって来て、確実に少し多めに飲むことになっているので、今から徐々に飲めるようになっておかなくてはならない。安いウイスキーか何か買ってきて、炭酸水で薄く割ったものを少しづつ飲むことにでもしようか・・・。

   風海

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機械あれば機事あり

  ビデオ録画しておいた映画を見ていると、物語半ばの、いいところで突然切れてしまった。昔のビデオならあり得るが、現在は番組表から予約してHDDに入れる形式なので、普通なら起こりえないことである。実際、急に画面が切れて、一体何が起こったのか分からなかった。

  機械に疎いので、どうせ何か失敗をやらかして気づかなかっただけだろうとは思うが、巨視的に見れば、映画などのんきに見ていないで勉強しなさいという天の声だったのかもしれない。その後勉強はしなかったが・・・。

  ただ、つくづく機械あれば機事ありだと思う。あまりにも有名な言葉であるが、知らない人のために解説すると、これは『荘子』外篇・天地篇にあるエピソードで、孔子の一行が楚から晋に帰ろうとする途中、一人の老人にあったというお話である。老人があまりにも非効率なやり方で畑に水やりをしているので、子貢がはねつるべを使えばいいのに、と言うと、老人は断固拒否して、件の言葉を言ったのである。

  機械とは便利な道具で、そういうものを使っていると、それがないと対処できない事態(機事)が起こってくる。そうすると、機心(機械に頼る心)が芽生える。そうなると、天真爛漫に自然の一部として生きていけなくなる、というのである。つまり、身体および五感の感度が悪くなって、うまく生きていけなくなるのである。

  人は科学技術を進歩させたが、生物としてはむしろ退化しているのではないか、と桜井章一さんがどこかで言っていた。この人は麻雀の先生だが、身体に関しては本当にまっとうなことを言うと思う。進んだのは科学技術であって、自分たちの生命現象が進歩したわけではないのである。そこを取り違えて、縄文人より現代人の方が偉いと思っているのは、やはり考え違いというものだろう。

  『荘子』原文は以下の通り。「機械有るものは必ず機事あり。機事有るものは必ず機心あり。機心胸中に生ずれば、則ち純白備わらず。純白備わらざれば、則ち神生定まらず。神生定まらざる者は、道の載せざるところなり」
  拳拳服膺してテレビの見過ぎには注意しましょう。

    風海

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つなわたり

  このブログはほとんど誰も見ないので有名(表現に矛盾があるけれど)だが、少数の親しい友人は見ていて下さるので、しばらく書かずにいると、「どうしたのかな」と言われることがある。

  このごろは、なんとかかんとか日々書き綴っているけれど、書くモチベーションを維持するのは実は大変である。誰だったかあるタレントがブログの記事を作るのにほぼ徹夜状態で、止めてしまったらすっきりしたというようなことを言っていた気がする。具体的な表現や事実関係に、あるいは間違いがあるかもしれないが、あり得ることである。

  松岡セイゴオ氏のように、毎日分厚い本を読んで分厚い記事を書きまくっている人もいれば、ぼくのようにほぼ何もしないのに(しないから?)短い記事を書きあぐねている者もいる。

  用事は忙しい人に頼め、と巷間言われるのは当たっているような気がする。松岡氏などはさしずめその口で、日々忙しくしていながら、その隙間を利用して膨大な仕事をこなしているのである。それは時間があるからではなく、時間がないという制約がそのまま位置エネルギーとなって、流れ落ちるように仕事がなされているからだろう。

  つなわたりの効用である。そういえば、ぼくの親しい先輩にもそういう人がいる。その人は、中国近世食物史では知る人ぞ知る研究者だが、いつも報告や論文提出前になると、「やばい」と言い始める。何もできていない。今回はもうだめだ。間に合わない。どうしよう、と言うのだが、そう言いながら飲んでいたりするので、もはや誰もその発言を信用していない。

  確かに急を要する場面で、何も準備が整っていないのは事実なのだろう。しかし、そういう口癖の先輩は、口ばかりでこれまで一度も原稿を落としていないのである。どのように仕事をされているのかは知らないが、いつも不思議と間に合って、抜き刷りなどいただいたりする。つなわたりの効用を、先輩もご存じなのだろう。こういう人を困らせるには、無限の時間をさしあげて、さあなんでも好きなものを書いてください、でも言えばいいのだろうか。

  幸か不幸か、先輩夏から某国の研究所に研究員としてお勤めになるという。他に仕事がないから、ほぼ一日ひまな時間ができるだろう。今までつなわたりで書いてこられた方が、どうやって原稿を書かれるか、参考までに聞いてみるつもりである。

      風海

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今日は

  三日連続とはならず、今日はお酒を飲まなかった。昨日はこの時間すでに酔っぱらってぐったりしていたから、飲まなくて良かったかもしれない。もっと生産性のある仕事をしていれば一日の終わりにぐっと飲んでそのまま寝てしまうのもありだろうが、今の状況ではそのほかの精神活動に支障をきたすわけにはいかない。

  まだADL(日常動作、 activities of daily living)までダメになっているわけではないが、このまま飲酒が常態化してしまうと、つまり毎日かっくらって寝てしまう。すると廃用性症候群で頭がぼけてしまいかねないし、その延長線上に身体も動かなくなってしまうかもしれないのである。そうなると、さらに生産性が悪くなってしまう。

  別に生産にこだわっているわけではないが、日本はやはり製造業立国しかないと思うから、それが何であれ、モノが生み出せなくなってはおしまいである。といっても、ぼくは何かを物理的に作ろうとしているわけではない。何かのアイディアをつなげて、あまり誰も考え出さなかったものや概念や行為などを作ること。これも広い意味で製造だと思う。

  ただ機械的に何かを行うのではなく、それを遂行する過程で問題点を見つけ出し、分析し、改善方法を検討すること、これをどういう場面においても行えれば、立派な流しの製造業者になれると思う。

     風海

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二日連続で

  二日連続で飲酒した。普通のことだが最近では相当珍しいので、自分でも驚いている。今日は、炭酸の入ったマッコリと「YONAYONAエール」。どちらも中途半端に半分くらい飲んだ。しかし、今日は大丈夫だろうと高をくくっていたら、きっちり酔いつぶれた。

  家で飲んでいるので、安心感から気が抜けているということもあるのだろう。ビデオ録画した落語を見ているうちに意識が薄れ、気が付いたら眠っていた。ぼくは大体酔うと眠くなるたちである。むかし大学院でよく飲んでいたころ、やはり人よりも先に机になついていたのを思い出す。

  しかし、高々6パーセント前後のお酒を、300ミリ程度飲んでこのざまとは情けない気がする。今日は天体のせいにもできない。まあ、ヨナヨナが旨かったからいいか。昨日のベルギービールにもおさおさ劣らぬ味わいで、むしろこちらの方が麦芽とホップだけで作っている分、味わいが滑らかであるような気がした。

 ところで余談であるが、ぼくはマッコリのどこがいいのかよく分からない。もっとも質の高いものを飲んだことがないから、と言われればそれまでだが、甘ったるいばかりで、今一つ馴染めない味である。身体にいいからと言うだけではやはり飲む気がしない。乳酸菌ならヤクルトで十分だし、濁り酒は日本酒に限る。また市販のマッコリはどうも工業アルコールくさい気がするのである。やっぱり本場に出かけて行って本物を飲まなくてはならないのだろうが、どうせ出かけるなら今年の夏は台湾に行かなくてはならない。

    風海

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久々に

  久々にビール飲みながらサッカーを見た。ビールはベルギーの「トンゲルローブロンド」あまり聞かない名前だ。口当たりがいいから、すいすい飲めるが、それほど度数も高くない(それでも6パーセントと、日本のものよりは高い)と思っていたが、瓶半分で酔っぱらってしまった。

  だから、途中から試合もろくに見ていない。日本代表対ヨルダンの試合。本田君ハットトリックで6対0の大勝だったが、前半が終わるころに寝てしまったようである。だから前半は見ていたが、ヨルダンはどうも不細工な試合をやっていた。

  反則をして早々に一人退場し、士気が下がって完全に気が抜けていたようである。ゴールキーパーだけは何とか氣を出していたようだが、あんまり点が入るので気の毒な感じである。ヨルダンだけにジョーダンじゃないよ、と言ったかどうか・・・。

  いやどうも、酔いざめで頭が働いてないようだ。ご退屈様です。

 

    風海

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天体ショー再び

  先日また、金星が太陽を横切るという天体ショーがあった。グラスも持っていなかったし、大して興味もわかなかったから、今回はあまり熱心に空を見上げることはしなかった。西洋では金星は美の女神ビーナスちゃんだが、中国の占星術でいうと、金星は太白であり、錬金錬丹術や兵器の象徴である。『淮南子』には金星の動きによって兵乱が起こるというような記述がある。

  その星が、太陽を横切って行ったのである。何百年に一度というずいぶん珍しい現象らしく、そのせいでまたぞろの天体ショーブームとなったのだが、不吉な気もしないではない。太陽は、日本では天照大神である。その上を金星が通ったということは、何か事件の前触れではないか。

  そう思っていた矢先に、ひげの殿下がご薨去になった。やはり何かの兆しが表れているのだろうか。・・・まあ、半ば面白がっているのだが(殿下のことではありません。ご冥福をお祈りいたします)、ひと波乱を望む気持ちというのはどこかにある。

  あのノストラダムスがブームになったのも、何かそういう大事件が起こって、リセットしてほしいという心情の表れだろう。終末論というのは、そういう心性に根差したものでもあると思う。本当に大災害があると困るが、何か起こってリセットされたらいいのに、と思うことで鬱憤を晴らしているのである。まあ、それだけ平和だということか。

  風海

 

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ガッツポーズ

  大リーグへ行ったダルビッシュ投手がガッツポーズをやめた、という記事を読んだ。 向こうではあまり派手にやると挑発行為と受け取られて、報復されるのだという。それはやらない方が身のためだ。

  日本ではガッツポーズは野放しになっているが、審美的な観点から言ってもやらない方がいいように思う。どうも力が入って見えるし、ぐっとグウを握るその形が、喜びを自分だけの内に囲い込もうとする形象のように見えてならない。

  幸田露伴に「惜福、分福、植福」の説がある(『努力論』岩波文庫)。何かいいことがあると、それを使い切らずに残しておき、余を人に分かち、次へつなげるために種をまいておく、という教えである。ガッツポーズはすべてを享受し尽くす人のすることである。惜しまないし、与えない。

  スポーツの場合、両手を挙げてみんなに笑顔を向ける方がいいと思う。両手を上げるのは抱擁を意味し、喜びを分かち合おうという気持ちが表れている(デズモンド・モリス)。ダルビッシュはずっと活躍し続けてきたが、これから喜びを一人ではなくみなへ分かつようになれば、もっと活躍すると思う。

  一般人ができる一番簡単な行為は、和言愛語(『観無量寿経』)だろう。少なくとも、グウを握って力を入れる姿からはこういう行動は生まれない。できればにっこり笑って過ごしたいものである。

   風海

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産学連携 その二

  前項で産学連携の悪口を書いた。「批判」というような高級なものではないから、まず悪口と言っていいだろう。そこで、学は産の奴隷になったというようなことを書いたが、歴史的には長いことその逆であった。なぜなら、学問は貴族のものであり、農民や商人は彼らの生活を支えるために労働を提供していたからである。

  だから、長い間学問といえば哲学であり、別けても形而上学であった。形而上学とというのは純粋な思考思弁の産物だから、身体を忘れられる人だけに許される特権であったのだ。この傾向は、ほとんど近代まで続く。ビンボー人が労働として学問を選択し始めるのは、ようやくマックス・ヴェーバーからである(まあ、よう知らんけど、大体・・・)。
 二葉亭長谷川辰之助は、通っていた外国語学校が商業学校と合併すると聞いて激高し、卒業まで半年を残して退学した。そのくらい、商人は蔑まれていたのだ。今そんなやつはいない。

  大学においても、外部資金を調達する先生が偉いという評価基準が出来上がっているから、むしろ商行為に長けた人の方が上位に位置づけられている。現在歴史学や文学などは一部を除いて不人気で、絶滅危惧種などと呼ばれている。まあ早晩なくなるだろう。そして、そのうち年商何億何百億という会社の、社長だかCEOだかという人がやって来て講義をするようになるだろう。いや、現にそうなりつつあるか。

  ぼくはそれが悪いと言っているのではない。いいとも言っていないが。それが学問をとりまく現状であり、今後それに拍車がかかるだろうと思う。そもそも、政治の中心が経済政策になったのはいつごろだろうか。昔も経済活性は政治の重要課題ではあった。しかし、それは国土に暮らす人民を飢えさせないためであり、「企業」というバーチャルな法人格を肥えさせるためのものではなかった。

  資本主義というのは世界中どこもそんなものかも知れないけれど、特に日本型のそれは企業メインでありすぎる。二億円くらい売り上げて、年収が数百万円というサラリーマンは多いと思う。だからどうだという話ではない。企業というものの性格上そうなるというだけである。

  産学連携も、そうした企業側の要求を学校が受け入れたのである。学の方は、ただ資金がもらえるとばかり思っていたら、いつの間にかおかしな方向へ引っ張られ、3.11に代表されるような犯罪的行為の片棒を担がされていたことになる。ただほど高いものはない、という。俚諺としては月並みな方だろう。しかし今は「フリー」を仕掛けて、巨利を博するというビジネスモデル全盛の時代である。フリーだからと言って、ホイホイなんでももらっているとそのうちドカッと持って行かれる。

  研究費をあげます。はいそうですかありがとう。これで完了である。あとは時期を見て回収するだけ。何を取られるかはその人次第である。しかしはっきり言えるのは、一番大切なものを持っていかれかねないということだ。学者研究者の皆さん、フリーには十分お気を付け下さいませ。

    風海

PS:今ふと思い出した。科学研究費をもらった人に請われて、メンバーに入れてもらい、お金やその他の利益供与だけいただいて報告書に論文を書かない人がいる。ぼくはこれを「科研金詐欺」と呼んでいるが、実はこれが一番うまいやり方かもしれない。研究代表者にはできない芸当だが、また次から入れてもらえない可能性も大であるが、もらうだけもらって何もしないというのは、貴族の常套手段である。学者は今一度先祖返りして、貴族的な心性で過ごしてみてはどうだろう。そのうち没落すると思うが、原発事故のような致命的なミスも生まれないだろうから、結果的にはその方がはるかにいいのではないだろうか。

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