« ある会合 | トップページ | 思ったことなど »

伊部の茶碗

 近世スウェーデン史家のK.ヴィリエ先生に、一対の湯飲み茶碗をいただいた。伊部(備前)焼きである。

 後楽園の傍にあるお店で買われたと伺った。小川ソウイチという作家の一点物である。型はやや小ぶりで下ぶくれになっており、安定感があるが、かといって鈍重な感じはない。備前特有のこげ茶色の地肌に少し光沢の出る仕上げになっていて、熱燗のお酒や番茶やドクダミ茶を飲むのによさそうだと思った。かたちが、取っ手をつけると西洋式のカップにも見えるつくりになっているからか、コーヒーを入れても様になりそうである。

 持ち帰ってそそくさと洗い、ドクダミ茶に柿の葉茶を混ぜたものを沸かして入れてみる。テーブルの上に置いた時にはまだ、新しい湯呑という感じであったが、手に持った途端、お茶の熱が褐色の地肌を通して伝わってきて、自分でもびっくりするくらい嬉しかった。土器の力を垣間見た瞬間である。

 こうして、ぼくはこの茶碗が手放せなくなった。そしてみるみるうちに、もう何年も家にあったかのように馴染んでしまったのである。これは土器というものが、身体性に溶け込む力を持っているからであろう。火と土の共演の賜物に触れたとき、知らず知らずのうちに、身体の古層が起動する。それは理屈ではない。

 現代生活は、情報という停止したものに振り回されるという事態によって成り立っている。これに対して、つかの間、土と火の現在進行形で変化しつつある様態の、静止したかに見える「今」が、土器としてここにある。土器は生きており、実は動き続けているのだ。その運動のダイナミックな流れが、自分の身体状況に合致するとき、肌が合うというのだろう。

 ここからお茶を飲むという行為は、茶碗とぼくの共演ということになるのだ。

     風海

|
|

« ある会合 | トップページ | 思ったことなど »

宇則齋志林」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1321750/43248612

この記事へのトラックバック一覧です: 伊部の茶碗:

« ある会合 | トップページ | 思ったことなど »