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2011年12月

思ったことなど

 数日前の新聞に、悪事に使われて有名になった某ファイル共有ソフトを開発した人の記事が出ていた。起訴されていたのが、無罪になったというのである。本人としては無罪放免はありがたいだろう。しかし、その無罪具合が少し気になるのである。

 本人曰く、「悪用されることを考えて作る人はいない」。そりゃそうだ。しかし、ちょっと考えればわかりそうなものでなないか、とも思うのである。ソフトの作者は東京大学で助手をしていたそうだ。だったら相当なインテリだと世間は思う。そして、そういうかしこい人が純粋に研究してできたものがたまたま悪用されただけだと思う。・・・わけないだろうが。

  科学の基本は「ああすれば、こうなる」だと養老さんも言っている。そうだとすれば、ファイルを構想した時点で、悪用の可能性に気づきそうなものではないか。気づいていて、そのまま放置してはたして悪用されたのであれば、それは本当に無罪か。また、本当にその可能性をつゆほども考えなかったとしてならば、それはもはやバカのグラン・クリュである。
 新聞を読んでいるとどうもそういうおかしなことが多い。精神衛生上は読まない方がいいのであろう。

  今年ももう少しで終りである。この記事も、毎日書こうと思っていたこともあるが、読むのは近しい友人だけである。だったら、よく会っているから、わざわざ文字で発表することもない。口頭の方が早いからである。遠くにいてあまり会えない人もいるが、少なくとも死んでいないことが伝わればいい。そう思うと、記事を書くのが面倒になった。パソコンはぼくの筆記具ではない。いまだに紙とペンで書いているのだから、パソコン画面に向かうのはやはり少し違和感なのである。

  しかし、来年は、もう少しましなものをもう少し多く書いてみようと思う。そうやって、皆さんに読んでいただき、批判を受け入れることで、ぼく自身、バカのグラン・クリュにならないようにしたいからである。

  では皆様、よいお年を。

  風海

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伊部の茶碗

 近世スウェーデン史家のK.ヴィリエ先生に、一対の湯飲み茶碗をいただいた。伊部(備前)焼きである。

 後楽園の傍にあるお店で買われたと伺った。小川ソウイチという作家の一点物である。型はやや小ぶりで下ぶくれになっており、安定感があるが、かといって鈍重な感じはない。備前特有のこげ茶色の地肌に少し光沢の出る仕上げになっていて、熱燗のお酒や番茶やドクダミ茶を飲むのによさそうだと思った。かたちが、取っ手をつけると西洋式のカップにも見えるつくりになっているからか、コーヒーを入れても様になりそうである。

 持ち帰ってそそくさと洗い、ドクダミ茶に柿の葉茶を混ぜたものを沸かして入れてみる。テーブルの上に置いた時にはまだ、新しい湯呑という感じであったが、手に持った途端、お茶の熱が褐色の地肌を通して伝わってきて、自分でもびっくりするくらい嬉しかった。土器の力を垣間見た瞬間である。

 こうして、ぼくはこの茶碗が手放せなくなった。そしてみるみるうちに、もう何年も家にあったかのように馴染んでしまったのである。これは土器というものが、身体性に溶け込む力を持っているからであろう。火と土の共演の賜物に触れたとき、知らず知らずのうちに、身体の古層が起動する。それは理屈ではない。

 現代生活は、情報という停止したものに振り回されるという事態によって成り立っている。これに対して、つかの間、土と火の現在進行形で変化しつつある様態の、静止したかに見える「今」が、土器としてここにある。土器は生きており、実は動き続けているのだ。その運動のダイナミックな流れが、自分の身体状況に合致するとき、肌が合うというのだろう。

 ここからお茶を飲むという行為は、茶碗とぼくの共演ということになるのだ。

     風海

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