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偏愛する音楽

 以前マルタ・アルゲリッチ(体調不良で来日中止ということだが、それよりも思った以上に高齢だったのには驚いた。なんとなく四十代後半から五十幾つくらいという印象だったので)のショパンを紹介してくれた友人に、ロマン派はいそがしくてついていけない、というようなことを言ったところ、彼も音の飛躍はモーツァルトなどに比べてはるかに多いが、そこにこそ特徴があるのだというような意見であった。

 もっとも、しばらくショパンを聴いているうちに、音の飛躍には慣れて、そのタイミングや間の取り方の妙に感心するようになってきた。確かに音階を多用するモーツァルトの安定感はないものの、繊細で優美な音の戯れが実現されている。ショパンでもシューマンでも、優美である。

 しかし、遠い記憶をたどってみると、ぼくは少年のころフランツ・リストを偏愛していたのである。なぜこのマジャール人のピアニストをそんなに好きだったかは思い出せないが、今改めて聴いてみると、ショパンなどの悪く言えばお気楽な優雅さではなく、もっと質実剛健な切れ味のようなものがある。この人は、本当にピアノがうまかったんだろうなと思う。それも、情緒に流されるようなひき方ではなく、しっかりとした土台の上に、職人的な誠実さをもって「情感」を表現できるタイプだったのだろう。

 聴いていてそう思うのである。有名な「ラ・カンパネラ」(『パガニーニ大練習曲』)でも『ハンガリー狂詩曲』でも、そのような技術の上に出来上がったものである。なんにせよ、やはり土台が必要だなと、しみじみ思う秋の宵である。

   風海

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