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2011年8月

イメージを使う方法

 イメージトレーニングというものがある。いい形になっているところを想像し、そのイメージを体にしみこませることで、実際の試合や試験などで好成績を出すというものだ。合氣道にも「氣の意志法」というものがあり、宇宙空間いっぱいになったところや、極小になってゆく様子を観想して、心身のパフォーマンスを上げるという練習方法である。

 これはただ座って「宇宙一杯」「1/2、1/2、1/2・・・」とやっていればいいので、形は簡単であるが、これを正確に行い、なおかつその効果を体で表現しようとすることは、非常に難しい。やればやっただけのことはあり、ある種の瞑想効果はあるかもしれないが、こうしたイメージ法はかなり上級者向けのトレーニングだと言って間違いない。

 光岡英稔監修・雄大著『FLOW 韓氏意拳の哲学』(冬弓社、2006、145ページ)に、光岡氏の、「意識的にイメージすることで実質が生まれるわけではありません。実質があるから、イメージが生じるのです」というコメントが載せられている。

 これは真理を突いていると思う。何かができるようになる過程というのは、出来て初めて実感が生まれるので、出来たという感触が先にあるということはあまりない。感触が先にある場合は、実際にはまだできていないことが多い。

 イメージトレーニングにしても「意志法」にしても、何らかの形で実質が先にでき、その「意味づけ」的な形で出来るようになるのではないかと思う。だから、はじめは必要ない、というのではなく、イメージが自然に浮かぶようになるまで、無理やりやっておく必要もあるのだろう。そのうち、無理なくイメージが先行するようになると、それは実質ができたことを意味しているだろうからである。

    風海

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体幹部をゆるめる

 身体運動の研究をしていて、体幹部が重要であるということを実感した。四肢は枝葉にすぎず、体幹の力を如何に伝えるかが、運動効果の成否にかかわっているのである。そのためには完全にリラックスできている必要がある。

 リラックスは簡単で、そのためには肩の力を抜けばいいのだ、というような妄説を唱える人はいまだに多い。確かに肩の力を抜くことは重要であるが、なぜ肩に力が入ってしまうかを考えてみると、体幹部の力みが伝染していることがほとんどである。体幹部が緩んでいて、肩だけに力が入っている人は、皆無ではないにしてもかなり珍しい部類だろう。

 だから、問題は如何に体幹の力を抜くかなのである。方法はいろいろあるだろうが、いわゆる体幹トレーニングなどではあまり効果がない。たしかに骨盤底筋などは強くなるだろうが、体幹自体の力は容易には抜けない。ためしに、歩きながら長い呼吸をしてみるといい。すぐに苦しくなって、続けることができなくなるはずである。

 ということは、呼吸法などで循環器の柔軟性を高めて、歩きながらや色々な動作をしながら長い呼吸ができるようにすればいいのである。しかし、言うは易く行うは難し。歩きながらそういうゆとりはあまりない。また、道路事情で空気が悪いので、鼻毛が必要以上に伸びてしまうかもしれない。

    風海

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農トレ

 五日ほど実家に帰って、農作業をした。のび放題にのびた、田んぼの草を刈ったのである。日が昇ると暑くなるので、平均朝六時くらいから数時間、鎌をもって田の中を歩き回ったのだった。

 草ののび具合はものすごく、完全に稲を圧倒している個所もある。とくに稗の生命力は素晴らしい。がばっと根を張って、茎も太く、強い。これが稲と稲の間に生えていれば刈るのは簡単であるが、稲のすぐ近くに偽装するかのように生えていることがあるので、注意が必要である。

 稗は上の方だけ見ると稲とあまり見分けがつかないから、根元を見たり葉っぱを注意深く観察する必要がある。じっくり見ながら中腰で進み、また同時に他の草も刈っていくという作業は、あまり楽なものではない。

 しかし、ずっとやっているうちに、体が慣れてきて、同時に感覚が研ぎ澄まされ、稗の隠れている場所が瞬時に分かるようになってきた。息をつめてじっとしている様子がパッと伝わってきて、見つけたら「ハイごめんね」という感じで、根元から刈ってゆく。根こそぎ引き抜くことはもはやできないから、稲刈りまで茎が成長しなければいいと思ってそうしているのである。

 こういう仕事を、一夏やったらずいぶん体ができてくることと思われる。ランニングとかマシントレーニングもいいかもしれないが、体力作りには農作業が一番である。以前、「脳トレ」をやっても、脳は鍛えられない、という研究結果が出たという話を聞いた。ではどうすればいいかというと、身体を動かせば本当の「脳トレ」になるのだという。

 だったら、農作業がいいのではないか。作物もできれば一石二鳥である。ぼくは自分の乏しい経験からもそう思う。農地トレーニングをこれからは「農トレ」とよび、同時に脳の活性化をも促す素晴らしいものであることを宣伝すれば、第一次産業ももっと発展するのではないかと思うのだが。

     風海

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不思議なこと

 一週間くらい前、夜の十時ごろ座布団にもたれてうたた寝していると、玄関の扉をたたきながら「ごめんください、ごめんください」と連呼する声が聞こえた。うちは部外者が容易には入れないタイプの集合住宅なので、どうやってドアのところまで来たのか分からない。また、玄関にはチャイムが付いているので、それを押さないのはどういうわけか。

 瞬時にそういう疑問が頭をよぎったが、声の主がどうやらおばあさんのようなので、ドアのチャイムなどに気がつかなかったのだろうと思い、特に疑うこともなく「どちらさまですか」と言って扉を開けた。

 するとそこには、誰もいないのである。

 これはどういうことだろうか。うたた寝の変性意識状態で、幻聴が聞こえたとしても、起き上ってドアへ近づく途中にも、たたく音と声が鮮明に聞こえていた(はずである)。

 ドアを開けて、誰もおらず、一陣の風がひゅうっと入ってきたとき、ちょっと変な感じがしたが、まさかユーレイさんではあるまい。その後の生活に特に支障をきたしていないところをみると、もしユーレイさんであっても、怨念などを抱いた類ではあるまいと思う。

 またおいで、とは言わないが、しかしあれは本当は何だったのだろうか、と今でも疑問が頭を去らないのである。

     風海

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のむかむ

 食事の際よく噛んで食べなさいと教わった。教わったけれども、あまり実行に移したことがなかった。第一そう教えた方も、ろくすっぽ噛んでいないのだから、お互いさまである。周囲を見渡しても、あまり噛むことにこだわっている人はいなさそうだ。

 このように、多くの人はほとんど噛まない。ぼくも長いことそうだった。しかし、最近ちょっと食べ過ぎのきらいがあって、量を減らさねばならないという気になったとき、思い出したのがよく噛むということであった。一回に五六十回噛めば、少しの量でも長い時間かけなくてはならない。そうすれば、相対的に量が減ることになる。

 実行し始めてみると、案外具合がいいということが分かってきた。噛むことによって唾液と十分混ざり合い、消化の半ばをすでに終わっていることになるので、胃腸への負担が少ないのである。ある人がインドで、あまり清潔でない水を飲まされたとき、よく噛んで飲めと教わり、事なきを得たという話がある。

 そう言えば、昔牛乳を噛んで飲めと言われたことがある。そうすれば腹を壊さないからと。前にも書いたが、牛乳の原料は牛の血液で、人間にとっては基本的には毒である。これを無害化するために、よく噛んで唾液と十分に混ぜ合わせれば、毒性がかなり解消されるのである。

 噛めばいいのである。ぼくはこれまで、身体にいいとされるものを食べる方が、健康のために効果的だと思っていた。しかし、本当の問題は何を食べるかではなく、どう食べるかだったのである。誰かのキャッチフレーズではないけれど、「噛めば命の泉湧く」のである。

 ところで、今日駅のホームにいたら、待合室でおにぎりを食べているおねえさんがいた。見るともなく見ていると、その食べ方が異様に早く感じられ、これは「食べて」いるのではなく、「呑んで」いるのではないか、と思った。蛇が蛙を呑むような印象である。

 ぼく自身これまで長いことそういう呑む食べ方をしていたので、その身体感覚は残っているが、これからは徐々に噛む食べ方に変えていきたいと思っている。だから今では水も噛んでいる。ただ冷たい麦茶や、ソーダ水はどうしてもつるっと飲みたくなるので、噛みにくい。

風海

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