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「ラブ注入」のあやうさ

 お笑い芸人で整体師の楽しんごという人がいる。芸自体はあまり面白いと思ったことがないが、整体技術は本物らしく、やってもらうのに何カ月待ちという状態であると聞いた。その人が、ギャグとしてやっているパフォーマンスに、「ラブ注入」というのがある。まったく突然に脈絡もなく始まるので、その意味を把握するのは難しいが、整体技術と思えば、ある意味納得できる。

 つまり、「ラブ注入」とおもって、施術をするということである。ぼくも現在、整体系統のあるボディーワークを習っているが、そこでは「氣を送る」ということに主眼が置かれる。すると、あら不思議、「ラブ注入」状態に近づくのである。そこが困るのだ。

 「ラブ」が「注入」されるのだから、それは結構なことだと思われるかもしれない。しかし、もし注入されるのがラブだけでないとしたら、どうなるだろうか。あるいはラブに交じって、別のものも注入してしまうとしたら。

 普通に生きている人間は、どんなにいい人でも、ラブの塊ということはあり得ない。やはり様々な感情があるし、その日の体調気分によって、心理状態も変化する。ラブだけを選択的に送り込むことは、ほぼ不可能である。

 ところで、インドに女性の聖者アンマ(通称:本来お母ちゃんという意味)という人がいる。来る人来る人すべてを抱きしめるという「行」を行なっているらしい。ぼくは話を聞いただけだが、抱かれに行った人によれば、がばっと抱きしめられたときの感触は、「空」「無」とでも表現するしかないようなものであったという。

 抱きしめるというような、極度に間合いの近い、接触面の多い身体技法で、まったく何の感情も入れず、ただ淡々とその動きだけを繰り返すことができるというのは、ほとんど名人芸である。しかも、千人万人単位でそれを行なうというのだから、「聖者」といって誤らない。

 状況などは若干違うけれども、整体もそのようでなくてはならないと思う。氣を注入しようとか、治してやろうとか、相手を気にするとかしていると、それらの思いがすべて邪念となって相手に入り込んでしまう。そうなると、治療効果がゼロではないとしても、半減してしまうことは否めない。受ける方としても、よほど気をつけていないと、うっかり邪念の大量照射を浴びてしまい、どこかに不調が出てくるということもあるかもしれない。

 だから、なるべく自分をなくし、ただのパイプ役に徹せるかどうかが重要であろう。禅で言う「無」などは、およそこの部類である。無になりきった人がもしいれば、その人の傍へ寄るだけで、治療効果があるのではないかと思う。

     風海

 

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