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日々の修行

 修行をするというと、断食したり滝に打たれたり座禅を組んだりといった絵を思い浮かべがちであるが、そういうのは専門家が行う特殊なミッションである。だからといって、われわれは素人だから、修行をしなくてもいいかというと、そうはいかない。

 特殊な「行」をする必要はないけれども、修行自体は日々自動的に継続していると言って過言ではない。いいかえれば、それは日常生活である。禅家の方では、日常即修行、という概念がある。座っているだけが行ではないというのである。それゆえ、農作業をしたり、お掃除をしたり、といったことをするのである。

 しかし、禅の修行として、お寺に属して行うのは、むしろ「易行」であろう。在家のまま、日常を修行ととらえ、一瞬も緩めないという気構えを持つ方が、はるかにハードルが高い。

 ぼくは、感情のコントロールの話をしている。日常、さまざまな場所で、さまざまな人に接しなくてはならない。その際、相手が気に入らないことを言ったりしたりする可能性は非常に高く、その際に争う気持ちを起こしたり、気を受けてしまったりすると、そこで行はストップしてしまう。

 むろん、リセットしてやり直せばいいのだが、そういうことが積み重なると、だんだんストレスが高じてきて、行どころではない気分になる。そこを、どうやって本道に立ち戻すかが問題である。

 行をするのに「楽・静・長」というキーワードがある。楽にできて、静かであり、長く続く、ということで、自分の感情を抑えるために、バランスを保つというボディーワークをするとして、それが「楽・静・長」の域に達すれば、その行の効果は日常へ応用できるはずである。

 ちょっと分かりにくいけれども、備忘録的に記した。

  風海

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