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この世のかたち

 このところ、横山紘一さんを手掛かりにして、唯識に親しんでいる。この唯識というのは、ヨーガの実践者たちが提唱した仏教思想で、すべては識(心)のはたらきによる、と説いたものである。

 俗に「お前が死んでも富士山はある」という言い方があるが、唯識によれば、私が死ぬと富士山はなくなる。富士山は心を離れて存在しないからである。唯一絶対の客観として、心の外に存在するわけではないのだ。

 その考察が進むと、「自分」というものも、あらゆる縁によって出来上がっているもので、「実体」としてここに存在するわけではないことが分かってくる。それを、「非有非無」という。有るのでもなく無いのでもない。ただ、心のはたらきがあるだけであるという。

 世界の事物や現象も心を離れて存在しないということは、それらのものを存在すると思わせるだけの素因が心の中にあるということである。横山氏は、自分は芸術的才能がないと思っていたが、モナリザを見て美しいと思うということは、心にモナリザの美を感じる要素があったということで、心による再構成ができるのだから、自分も芸術家だと言っていいという。

 それは一見へ理屈のようだけれど、柳宗悦が指摘する、茶道における始祖たちの創造行為を考えればいい。茶祖たちは、何も自分で作ったわけではない。しかし、見たのである。見て、雑器のなかから美を取りだした。それは、自ら作り出すのに匹敵する創造である、と柳は言う。

 しかし、それらはあくまでも心のはたらきであり、唯一絶対の客観があると考えてはならない。主観どうしの戯れがあるばかりである。だから、科学的、学問的客観というのは、一つの信仰だということになる。心の外に自分を離れて唯一神を措定し、その視点に立つことを理想とする、ある宗教の教えをベースにした考え方にすぎない。

 ないものを恰もあるように言いくるめ、それに従わないと不利益を被るような気分にさせられる。ひとはそれに乗っかっているうちに、それが絶対の教えであると感じるようになり、自分と違う信仰をもつものを排斥し始める。オ○ム真○教とか、白衣で山中をさまよっていた人々などと似た心性である。

 ぼくは客観の奴隷にはなりたくない。己が主観の塊のくせに、客観的でないといけないような口吻で「折伏」にかかってくる人々は信用できない。というよりも、そのあまりのナイーブさに鼻白む思いがする。しかし、そう思うということは、実は「ぼくが悪い」のだ。

 この世のかたちは、どうでもいい、という暗号でコードされている。見えているものが醜いのは、ぼくの中に醜いものの原型があるのだ。世界がそうであるという責任は自己にある、ということの理由である。

 ぼくは心に科学的客観がすべてではない、という思いを勲習(焚きしめて)していこう。そうすれば、それを使って世界をほぼ支配してしまったあの宗教のくびきを脱するであろう。それはしかし、孤独な戦いになるだろう。仏教を研究している人々すら、あの宗教の教理に従ってやっているのだから、衆寡敵しない状況が続くであろう。まるで、映画『マトリックス』の世界のようだ。

 しかし、サングラスはいいとして、長いコート着て街を歩いていたら、これからの季節は暑くてかなわないだろう。

   風海

 

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