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何を、ではなく、どのように

 禅家の方では、日常生活が即修行である、と唱えている。実際に座禅を組むだけでなく、行住坐臥すべての行動を「修行」というスキームで創造的に生きていこう、というのが禅の思想なのであろう。

 そうすれば、確かに無駄はない。座禅だけなら、座れるのは一日数時間だけだろう。それなら、一日中生活そのものが修行ととらえ、二十四時間を使った方が、はるかに効率的だ。はやりのレバレッジ時間術などとは、大違いで、座ることなく「座禅」をする時間を二十四時間確保するための、発想の転換である。

 禅では、あまり煩悩がわいては困るというので、酒はもちろん、ニラやニンニク、ネギなど、強壮効果のあるものは摂取しない。この点にはぼくは異論があって、強壮効果があるものは、逆に胃腸へ負担をかけるので、体をいたわる意味から摂取を制限しているのだと思う。

 そのことに関して、現在健康ブームで、各地に玄米や野菜料理の店ができ、白米を五十円プラスで十六穀米に変えるなどのサービスを行なっているところもある。それは実に結構なことである。ぼくも、日常玄米を食べ、肉中心よりも野菜の方が性に合っている。

 しかし、安易な健康志向には、やはり違和感がある。野菜を食べればいいんでしょ、というので食べるのは、「自分の健康」だけを考えたやり方で、そこには「縁起」という視点が抜けている。縁起とはつまるところ関係性であり、さまざまな相互依存関係の網目のなかに自分がいるという自覚である。

 要は、「何を」食べるか、ではなく、「どのように」食べるかだ。ただ漫然と、身体に良いものを食べるよりも、少々?マーク付きであっても、感謝して食べる方が、よほど滋養になりそうである。また、感謝とは、そのこと自体が目的なのであり、感謝する機会が多ければ多いほどいい。

 何を食べるにしても、常に感謝して食べれば、それがそのまま行になる。しかし、食事などはまだいいが、例えばガムなどを口にするとき、何も考えずにポンと口に入れてしまったりする。そして、後でしまったと思うのだ。感謝をするという練習は、誰でも出来る簡単なものに見えて、実はかなり奥深いのだと思う。

 分かっていても、その場になると、ひょいと念頭を去ってしまうのだ。常に、強烈に感謝の念を持ち続けていないと、ガムに感謝をする機会は来ない。しかし、ぼくは今日も、何回ミスをしたか知れないのである。

     風海

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