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知的好奇心

 知的好奇心の最たるものは、自らの内側へと向かう。外界の事象は膨大であるといえども、有限である。しかるに、自らの心の内は、無限の宇宙が広がっている。夏目漱石の『三四郎』冒頭部分にも、「偉大なる暗闇」廣田先生のことばとして、「頭の中は何よりも広い」という意味のことが書かれていたように記憶している。

 世にいう自分探しというのは、その名を借りた世界旅行でしかない。そこで得られるのは、幾人かの友人と、旅行心得くらいのものであろう。では、どういう具合に自らの内へ沈潜するのか。

 なにかを、身体を媒介として極める、ということを思いつけばいいのである。絵でも文章でもいいし、スポーツや武道、舞踊、ヨガなど、天地あるいは宇宙、または神霊との交流によって進歩する何かである。

 むろん、極めるというのは言葉のあやで、極めたと思った先には新しい宇宙が始まっているのがふつうである。そこで、また一から歩みを始める。その繰り返しがいいのだと思う。それを、川上不白は「守・破・離」といった。また千利休は「稽古とは一より習い十を知り、十よりかえるもとのその一」といった。

 初めの「一」と十より帰ってきた「一」では、「一」具合が違っているのである。どのように違うかは、その分野や達成度によって異なるが、一の味わいが明らかに違ってきていることを実感すると、また進んでいって一へ帰りたくなるのである。

 次に帰ってきたときの一は、どのような相貌を見せ、どのような味わいをもたらすのだろうか。そこへ遥かにあこがれるのが、知的好奇心の最たるものだとぼくは思う。

     風海

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