« 「ラブ注入」のあやうさ | トップページ | よしなしごと 其二 »

よしなしごと

 文章を書くという技術を衰えさせないために始めたこのページであったが、ワープロを直接打っているうちに結果的に文章が下手になってきたとは、以前書いた。本末転倒である。しかし、何が本で何が末かは、個人の感性が多いに関与するので、ぼくの気の持ちようにすぎないのかもしれない。

 以前、AS氏と一緒に「デンズ」で見たZAZ(ザーズ)のCDを買った話をかいた(実際に購入したのは後日であったが)。聴き始めた時には、そのテンポの良いメロディーに魅了されていたが、しばらく聴き続けているうちに、あのかすれ加減だが不思議に透き通った声の、哀愁の深さに驚嘆するようになった。

 ZAZはまだ二十代前半のはずである。若い。それだのに、あの悲しみというか憂いの含み方はどうしたものだろうか。歌っているうちに、自然とそれが引き出されてきたとすれば、それは、シャンソンというジャンルの奥深さなのだろう。

 ぼくはちなみに、奈良光枝さんのファンである。『青い山脈』『悲しき竹笛』『赤い靴のタンゴ』など、どれも名曲だが、奈良さんの明るい、家族歌謡的な歌声のたまものでもある。しかし、その一点の曇りもないはずの声を、何度も聴いているうちに、やはりある種のサウダーデといったものが含まれているのを感じ始めるだろう。

 それは、人の運命を歌いあげるという、ミューズに課せられた義務のようなものではあるまいか。ミューズたちは、これと決めた人々を導いて、神々のために人の運命を劇的に表現させるのである。形式はそれぞれで、絵画、歴史、天文、舞踏、叙事詩など多岐にわたる。ミューズたちに魅入られると、どんなにアホで明るいだけの人も、心に襞を生じ、ある哀愁を帯びてきはじめる。

 モーツァルトが、クリムトが、そしてエディット・ピアフがそうであった。ZAZの天与の声も、恐らくその類なのだろう。だが願わくは、ピアフの分も長生きをして、彼女に倍する曲を残さんことを……。

    風海

|
|

« 「ラブ注入」のあやうさ | トップページ | よしなしごと 其二 »

宇則齋志林」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1321750/40387523

この記事へのトラックバック一覧です: よしなしごと:

« 「ラブ注入」のあやうさ | トップページ | よしなしごと 其二 »