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ものすごいひと 其の三

 おれの師匠は、若い時から禅をやりこんだが、禅にかぶれて坊さん臭くなるようなことはなかった。やはり若い時分、禅の本を読んで、「言うことが禅坊主のようだ」と言われたぼくなどとは大分出来が違う。

 ある時、なにがしという居士がやってきて、『臨済録』の提唱をしてくれという。提唱なら、円覚寺の洪川和尚がいいだろう、と辞退すると、是非にとしつこく迫ってくる。それじゃあ、というので、道場へ案内し、自分は道着に着替えて、門人とひとしきり撃剣の稽古をした。それが終わって居士を振り返り、「どうです、私の『臨済録』提唱は」とたずねた。

 居士は、山岡が稽古をして元気をつけてから提唱を始めると思っていたので、まごついて返事ができなかった。すると、師匠は声を励まして、
「おれは剣術が好きだから、剣で提唱をしたのだ。坊主のまねをして、禅書の講釈なんぞまっぴらだ。君は長く参禅しているようだが、臨済録を書物と心得ているような参禅のし方ぢゃ死ぬまでやったって道楽半分の骨董禅だ。もっと活かして使わなけりゃ、いくら座禅したってなんにもならぬ」
 と、諭したという。居士は赤面して立ち去った。

「もっと活かして使わなけりゃ、なんにもならぬ」
 とは、重い言葉ではないか。ぼくもこの言葉に、内心の動揺を禁じえなかった。自分に何ができるのかは、まだよくわからないけれど、なんにせよ、もっと活かして使えることをしよう、と思ったのである。

 ところで、最近気に入って愛読している唯識学者の横山紘一という人が書いた『十牛図入門』(幻冬舎新書、2008)を読んでいると、横山氏は若いころ一九会へ修行に行っており、日野鉄叟先生が、「風は息、虚空は心、日は眼(まなこ)、海山かけて我が身なりけり」(『禅林世語集』)という歌を吟じられるのを毎回聞いたという。なにかご縁のようなものを感じる。

   風海

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