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雑貨屋としての文化史

 シマノフ夫妻と、大阪市内の某所にて会談する。最近、雑貨屋でも経営して暢気にディレッタントライフを満喫しようかと思っているといったら、彼らもそう考えていた所だ、というお話になって、ひとしきり、いかなる雑貨屋をやるべきかという議論に花が咲いた。

 ラ・レーヌ・シマノフの仮名子さん(仮名)は、香港の雑貨を扱いたい、といわれた。それに異存はないのだが、まずはコンセプトありきの方がいいのではないか。何かを構想するとき、個物ではなく包括する概念をまず規定しておいた方がいい。そこから、次元を下る形で個物へと入れば、間違いなく正解にたどりつくだろうと思う。

 雑貨屋のことはまた別に書くとして、雑貨とは何か。これが問いである。

 雑貨とは、まさに雑多な貨物であり、ジャンルの本流ではないもの、という印象がある。
 たとえば、雑貨屋にはいろいろな楽しい柄のお皿はあるが、ジノリやウェッジウッドなどはあまりお目にかからない。ファンシーなアクセサリー、小物はあるが、ティファニーやスワロフスキの商品は置いてない。手作りの曲がった陶器は置いているが、人間国宝の作品を見ることはできない。

 すべて、二流以下のものばかりである。しかし、それこそが、正しい都市生活者の「生活」ではあるまいか。ぼくは一流品が大好きで、一生持つものは大体百貨店で買いたいと思っているが((まだ、手帳をどう位置付けてよいか分からない。シマノフに勧められた「モレスキン」は高価すぎて手が出せない。しかし、主張を全うしようと思えば、これを使わない手はないのだ。中村真一郎が少年の頃、ご父君に作家になりたいと告げたところ、最高級のノートとシャープペンを与えられた、という話がある。一生の仕事とするための道具を持つなら、一流品を持たなければ意味がない、という教育方針だったのだそうな))、雑貨屋の雰囲気は捨てがたいのだ。

 で、タイトルの文化史であるが、これは大文字の「歴史」ではないし、またその語りも大文字の「文学」であってはならない。大文字の文化史や、美術史の範疇からこぼれおちたもののなかに、本当の生きた文化を伝えるものがあるのではないか、と思うのである。

 近世美術でいえば、浮世絵などはもはや高騰しているが、どこかの蔵にしまってあった、落款の文字も読めないような、三流四流以下末流の掛け軸など、誰も見向きもしないようなものや、おもちゃのような工芸品など。骨董屋でも、二束三文で投げ売りしているようなものがいい。こういうものを集めて、あるコンセプトに従って並べて見せる文化史の在り方を模索してもいいのではないだろうか。そういうものこそ、庶民がたしなんだものたちであって、狩野派の上等の絵を正月にかけることのできる町人がいくらいたか、心もとない。

 雑貨屋の位置づけもそういうものではあるまいか。美術品は美術館に任せておき、上等品はブランドショップに任せておき、その下の、中学生のお小遣いでも買えるけれど、あまり見かけたことのない思わず目を引かれる、手に取ってみたくなるような品々を置く。それが外国のものであれ、日本のものであれ、作った人の心が伝わり、その土地の空気が感じられればなおいいように思う。

 文化史が書かねばならないのも、本当はそういうことどもなのではないだろうか。

         風海

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コメント

ぼくの好きな作家・堀江敏幸は『もののはずみ』の中で、彼の「物心」をくすぐる物たちが集まる店をこう表現しています。「いわゆる鑑定士を必要とする高価な美術品や、ほんとうの意味での掘り出しものではなく、せいぜい二十年か百年くらいまえ、はたから見ればただのがらくたにすぎない中途半端なものたちの集まってくる店」。この「中途半端」こそが、文化史を担いうる雑貨の本質なのではないでしょうか。(AS)

仮名子に爆笑。(仮名子)

投稿: AS&仮名子(仮名) | 2010年12月11日 (土) 00時22分

そうだと思います。「中途半端なもの」こそが、大文字ではない本当の日常を反映した「文化」史を構成できる。とはいえ、あまりにも卑小なものやくだらなさ過ぎるものではなく、名品主義からはそれるけれども、よく手になじむとか、それ自体が幸せの象徴であるとか、そういった物品を扱いたいものです。文章においても、商売においても。

投稿: 風海 | 2010年12月11日 (土) 16時59分

「それ自体が幸せの象徴」となるような品物……素敵な表現ですね。今、目の前にある「貴婦人の手」とか、リュクサンブール公園で拾ったマロニエの実とかが、まさにそれだなぁ……。

投稿: AS | 2010年12月11日 (土) 19時07分

「貴婦人の手」とか「マロニエの実」とか、実に美しいですね。その文字面だけで、絵が想像できて、しかも情緒があります。ぼくの机の上には、雑然たる書類と本と久木さんの絵をのぞけば、入浴剤のボールの中から出てきたミー(ムーミンに出てくるキャラクター)の小さな人形くらいしかのっていません・・・。

投稿: 風海 | 2010年12月15日 (水) 20時40分

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