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共感覚、あるいは文章の肌合い

 世の中に「共感覚」という知覚異常者がいる。芸術家の中に多いというから、異常と言っても悪いものではないのだが、音を聞いて色を見るとか、味を音で感じるとか、どうもそういう神経回路の混線した状態らしい。

 ぼくは自分がそうだとはけして思えないが、たまにそういう「ふうな」感覚になることもある。文章を読んだときにそうなることが多いところをみると、長年親しんだものを味わうために、全身が協調しているのではないか、と勝手に都合のいい解釈をしているのである。

 さて、今日、浅田次郎『中原の虹』(講談社文庫、2010)全四巻を読了。『蒼穹の昴』『珍妃の井戸』ときて、最新作『マンチュリアン・リポート』へと続く清末民初の壮大な歴史絵巻である。結構は雄大で、調査は細心、物語は堅牢、英雄譚から幽明界の住人までが活躍する、重層的なファンタジーでもある。

 感動的だったし、旨いなあと舌を巻くことも一再ならずあった。手放しで天才の作品であると褒めていいと思う。

 がしかし。

 同時に読み進めている堀田善衛『ミシェル城館の人』(集英社文庫、2004)と比べると、どこか肌合いが軽いのである。肺腑をえぐるような、どしんとした重量感というか、持ち重りのする鋼の手触りというか、そういう点でやや不満というか、「あれっ」というような、軽さあるいは肌理の粗さを感じるのである。

 ぼくは、十二月にはたいていロシア文学を読んで過ごす。冬はやっぱりロシアでしょう、というわけで、すきなのはトルストイの『アンナ・カレーニナ』である。こういう小説を読むと、総体が大理石の上等で作られた、本物の宮殿に歩み入ったような気分になれる。権威主義と言われようとも、本物のもつ粒子の細かさは、堪えられない味わいなのである。

 『中原の虹』を読み進めながら、大変楽しんでいたにもかかわらず、ぼくはいつもの玄米とみそ汁が食べたいと思うような思い方で、消化に悪い「文学」を求めていたのだった。こういう気分というのは、あまり多くの人に理解してもらえないと思うが、実感として確かにそうあるのだから、仕方がない。

   風海

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