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幻視人類学講義

 小泉武夫・東京農業大学教授は、かつて毎日新聞の連載エッセイで「味覚人飛行物体」と名のっておられた。味覚人、はいいとして、飛行「物体」はないだろうと思っていたが、ぼくも真似をして「幻視人」を名のるようになった。

 味覚人飛行物体は美味いものを求めてさまよい、異常なほどの健啖ぶりを見せるおっちゃんであったが、幻視人は人の見ないものを見る。人の見ないもの、というと、すぐにユーレイや前世といったたぐいが連想されるが、そうではなく、妄想のクリアなもの、と言い換えてもいい。

 さて、先日来、知人に『キン肉マンⅡ世』という漫画を借りて読んでいる。約二十年前に『週刊少年ジャンプ』誌上で連載され、キン消しなどがはやった『キン肉マン』の息子が活躍するという設定である。超人という身体能力の優れた人々が登場して、その格闘技術を競うという、早くいえば格闘もの、プロレス、ヒーローマンガである。

 こういった漫画にほぼ共通する点は、はじめ敵の方が圧倒的に強いということである。また、その強い相手を相手に戦いを繰り広げ、不利な状況に必ず追い込まれ、あと一歩というところまで攻め込まれてから、友情の絆、不屈の根性でそれを跳ね返し、最後には難敵を撃破する、という筋書きである。

 幻視人の見所からこれをみると、ヒーローはずいぶん損をしている。なぜかというと、彼らにはヴィジョンがないからである。敵の方は「お前がマットに沈む姿が見える」とか、「これこれの必殺技で、血の海にしてやる」とか、きちんと自分なりのヴィジョンを描いているにもかかわらず、ヒーローたちは「やってみなくては分からない」などと、胡乱なことを言うばかりだからである。

 通常、ヴィジョンのあるものとないものが戦えば、ヴィジョンのある方が勝つに決まっている。それは、先の大戦でも証明された(その要素ばかりではないが)。ともあれ、ヒーローにあるのは、何とかなるといったたぐいの、漠然とした思いだけである。こんなのにやっつけられた相手は、さぞ悔しいことだろう。

 ぼくが言いたいのは、ヒーロー漫画には構造的な欠陥があるということだ。それは、努力根性友情を前面に押し出すあまり、ヴィジョンを軽視するという点である。こういう漫画を見て育った少年は、根性だけで何とかなると思ってしまう。ところが、危機的状況で使えるほどの根性や、固いきずなで結ばれた友情を育むことが、いかに困難であるかということに気付いていない。それならむしろ、クリアなヴィジョンを描く力をつける方が捷径である。

 少年たちにモノ申したい。ヒーロー漫画の主人公に騙されるな。最後のどん詰まりまで追い詰められ、気迫と根性、美しい友情に支えられて、勝利を手にし、「ありがとうキン肉マン」と涙で終わるドラマは、虚構にすぎない。君たちに求められているのは、むしろ結果を先取りする幻視人としてのヴィジョンの使い方であるということを。

        風海

 

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