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2010年11月

ざ・しょっく(座・食)

 うすうす分かっていたけれど、正面きって改めて言われるとこたえることがある。

 最近、食べ物に関してそういう話を聞いたり読んだりすることが多くて、正直凹み氣味である。一番面白かった(ショックだった)のは、牛乳のこと。

 ぼくは牛乳自体はそれほど好きではないけれど、ミルクティー(カフェ・オ・レ)は飲むほうだし、何よりクリームが大好きだ。ケーキを選ぶときも、クリームの分量で選択することがあるくらいである。

 しかるに。

 牛乳とは、本当は何か、という話にここからなる。
 お母さんの母乳は、栄養を含んだ血液が乳腺で乳に変換されたものである。赤ちゃんは、お母さんの乳(ち)つまり血(ち)を飲んで育つのだ。乳という形に変換されているから、血液型などは関係なくなるし、血液それ自体にはない成分もが溶け込んでいて、赤ん坊の成育には欠かせないものである。

 哺乳類であるからには、人間も牛も同じ乳の生成過程を通る。ということはつまり、牛乳は牛の血液である。牛乳を滅菌して成分を取り出したものを薄めて、牛の赤ちゃんに静脈注射しても、子牛は死なないが、同じ事を人間の子どもにすると死んでしまう。その逆もまた然り。種が違うから、血液を同化できないのである。

 さて、食べ物をとった後に始まる消化も、同化の作業である。とすれば、牛の血を牛乳という形でとることは、牛の肉を食べることか、それ以上によろしくないことなのではないか。牛乳は、成人病の発生にかなりの確度でつながっているのだという。

 こういう話を話半分に聞いておくだけの度量は、ぼくにはない。そのうちショックが薄れたら忘れると思うけれど、今はクリームたっぷりのケーキを見ると、牛の血を固めて作ったという伝説のお菓子「血汚冷吐(ちょこれいと)」を思い出し(見たことはないけれど)、ちょっと胸が悪くなる。

 そのほかにも、まだ色々聞いたけれど、これを読んでしまった人の食生活をかき乱すのは本意でないからやめておく(次回以降に書くかもしれない)。

           風海

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幻視人類学講義

 小泉武夫・東京農業大学教授は、かつて毎日新聞の連載エッセイで「味覚人飛行物体」と名のっておられた。味覚人、はいいとして、飛行「物体」はないだろうと思っていたが、ぼくも真似をして「幻視人」を名のるようになった。

 味覚人飛行物体は美味いものを求めてさまよい、異常なほどの健啖ぶりを見せるおっちゃんであったが、幻視人は人の見ないものを見る。人の見ないもの、というと、すぐにユーレイや前世といったたぐいが連想されるが、そうではなく、妄想のクリアなもの、と言い換えてもいい。

 さて、先日来、知人に『キン肉マンⅡ世』という漫画を借りて読んでいる。約二十年前に『週刊少年ジャンプ』誌上で連載され、キン消しなどがはやった『キン肉マン』の息子が活躍するという設定である。超人という身体能力の優れた人々が登場して、その格闘技術を競うという、早くいえば格闘もの、プロレス、ヒーローマンガである。

 こういった漫画にほぼ共通する点は、はじめ敵の方が圧倒的に強いということである。また、その強い相手を相手に戦いを繰り広げ、不利な状況に必ず追い込まれ、あと一歩というところまで攻め込まれてから、友情の絆、不屈の根性でそれを跳ね返し、最後には難敵を撃破する、という筋書きである。

 幻視人の見所からこれをみると、ヒーローはずいぶん損をしている。なぜかというと、彼らにはヴィジョンがないからである。敵の方は「お前がマットに沈む姿が見える」とか、「これこれの必殺技で、血の海にしてやる」とか、きちんと自分なりのヴィジョンを描いているにもかかわらず、ヒーローたちは「やってみなくては分からない」などと、胡乱なことを言うばかりだからである。

 通常、ヴィジョンのあるものとないものが戦えば、ヴィジョンのある方が勝つに決まっている。それは、先の大戦でも証明された(その要素ばかりではないが)。ともあれ、ヒーローにあるのは、何とかなるといったたぐいの、漠然とした思いだけである。こんなのにやっつけられた相手は、さぞ悔しいことだろう。

 ぼくが言いたいのは、ヒーロー漫画には構造的な欠陥があるということだ。それは、努力根性友情を前面に押し出すあまり、ヴィジョンを軽視するという点である。こういう漫画を見て育った少年は、根性だけで何とかなると思ってしまう。ところが、危機的状況で使えるほどの根性や、固いきずなで結ばれた友情を育むことが、いかに困難であるかということに気付いていない。それならむしろ、クリアなヴィジョンを描く力をつける方が捷径である。

 少年たちにモノ申したい。ヒーロー漫画の主人公に騙されるな。最後のどん詰まりまで追い詰められ、気迫と根性、美しい友情に支えられて、勝利を手にし、「ありがとうキン肉マン」と涙で終わるドラマは、虚構にすぎない。君たちに求められているのは、むしろ結果を先取りする幻視人としてのヴィジョンの使い方であるということを。

        風海

 

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読書の秋

 読書の秋がやってきたとたん、急に本が押し寄せてきた。

 先月からとってあるアントニオ・タブッキ、G・ガルシア=マルケス、N・ギンズブルグ、そして電車の中で読み継いでいる『ミシェル城館の人』に加えて、Y先生から浅田次郎の『中原の虹』『マンチュリアン・リポート』をお借りし、これでは順序がさかさまだからと思って『蒼穹の昴』から読み始めているので、小説漬けになっている感がある。そのほか、内田樹『武道的思考』をはじめ、武道、日本文化系統の本にも目を通さなくてはならないので、なんだか急にアメリカの大学院生のようになってきた。

 今年の五月から書きついで来た共著(ぼくの名前は出ないが)の武道と身体運用に関する論文の続編として、今度は「型」と動感察知力の関係を、フロー状態やスキャン、といった側面から捉える論文の作成にも入りつつある。そのほか、同じ流れから、Y先生の言行をまとめ、合氣道を日本文化として継承してゆくための、笑える啓蒙書『アッホー合氣道』(もしくは『お好み焼きと合氣道』)をも構想中である。

 これらの原稿は別に書かなければ書かなくてもいい、といった種類のものである。ぼくの業績にはならないからだ。自分の生きた証を残そうとするならば、自らの署名で出せる原稿を書くべきかもしれない。しかし、そのためには、いつ発表するとも知れない原稿を黙々と自分のためだけに書き続けるという、負のオーラ漂う精神力を必要とするであろう。そういった暗闇に何かを投げ込むような作業に、ぼくの神経は耐えられない。

 ぼくの生きた証は、ぼくを知る人が生きている限り心にしまっていてくれる「思い出」さえあれば、それでいいと思っている。多くの思い出がそうして保存され、消えていったのだから。後世に影響を及ぼし、万代にまでその名をとどめるというのは憧れではあるが、実感がない。ぼくはこれから頭の冴えてくる秋、冬を迎えて、閉門読書をするだろう。そうして、心に映るよしなしごとではなく、誰かがそれによって幸せになるようなものを書きたい。

 読書の秋の「秋」という字は、「とき(時)」という意味でもある。天の時、地の利があるうちに、馬ではないが教養をつんで精神を肥えさせようと思う。それは、「使い道」のためではなく、まぎれもなくどこまでも持っていける自分の思い出のためである。

         風海

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