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着想など

 悟りを開いていないから(当り前か)だろうか、いろいろなことをつい考えてしまう。その大半というか、ほぼ九分九厘は全く何にもならないことばかりだが、たまにそれを大事に育てたら何かになるんじゃないかと思われるような着想も混じっている。

 ①ギリシャの古いつぼなどの絵や彫刻を見ていて、動いている兵士などの図像で、どうも右手と右足(左手と左足)が同時に出ているように見えるものがある。それって、「ナンバ」(古武術の動き)じゃないだろうか。
 もしそういう身体運動がギリシャにあったとするならば、現在のような体をひねる歩き方はいつどこで始まったのだろうか。あるいはギリシャにはその両方があったのだろうか。古代史を政治史的に見る場合、全く何の役にも立たないが、文化史として見ると案外面白いのではないか、と思った次第。

 ②合氣道開祖の植芝盛平は、門人に「持ち上がらない身体」を説明するのに、「神が私の体に入ったからだ」という説明をしていたそうである。本当かどうかは別として、それは植芝先生の実感であったのだろう。神が入ってくるということは、その分「私」というものが侵食されるということである。神が入ってきた分量だけ、自分がなくなる。
 「持ち上がらない身体」は、「甲(植芝)が乙(門人)に持ち上げさせないようにしている」のではなく、自動詞的に「持ち上がらない」のである。神が云々・・・という説明は、いかに自分をなくすか(禊=身削ぎができるか)ということの重要性を教えたものであったと思う。

 ③昨日の「マチネ・イストリック(水曜会)」において、A・シマノフと祈りの本質について話し合う。上記②の話に関連するが、ジャルダン派はどうやら「憑依」を重要視しているらしい。気に入った文人や学者の本を読む(あるいは本人に会う)ことで、その相手を自分の中に「勧請」する(あるいは憑依していただく)。そうしてはじめて、なめらかで細かい思考ができるようになる、というのがジャルダン派の考え方である。
 だからなるべく「自分」というものがない方がよく、甲、乙、丙といろいろな文人に入ってきていただくと、その集合体としての「自分」が事後的に形成される。そうなったときはじめて「自分のスタイル」と言いうるものができるのだろう。「祈り」とは、だから自分の中に入ってきてくださる方々との対話に他ならないのである。

 と、まあそういうことを考えたり考えさせられたりしていると、少なくとも退屈はしないようだ。また、よき対話相手に恵まれることも、重要だと思う。周りに誰もいないから、というときこそ、本を読むチャンスである。故・山本夏彦翁は「私は死者を差別しない」と言った。「友人」に生死は関係ない。デッド・オア・アライブ、誰とでも仲良くしておけば、いずれ何かいいことがあると思います。

           風海

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