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2010年7月

六甲山を越えて有馬へ

あれから一週間後、私たちはまた、山のなかにいた。

しばらくは辛い峠越えは避けたいし、2回目は少し短いコースを設定した。前回、ホウホウの体でバスに乗り込んだ東お多福山の登山口まで、バスで向う。
今回のスタートはここから。靴の紐を結びなおして9:00に歩きはじめる。

土樋割峠までは舗装された道が続いて、少し足元が固い。9:30に七曲りの上り口である
沢に到着。せせらぎが心地良い。ホトトギスも「テッペン カケタカ♪」と、のびやかに歌っている。
ここからようやく山登りの雰囲気が出てきた。

Sawa

七曲りに向かう沢。
この沢を越えてゆく。

六甲山頂を目指す七曲りは、登りが苦手な私にとってはやっぱりしんどかったが、風海さんは楽チンだったみたい。登山前の想像に比べると拍子ぬけしたそうだ。今回はバスも利用したし、土樋割峠までも順調に来れたからかもしれない。
前回の登山で、行程の三分の二は泣きごとを言っていたと指摘された私も、この登りでは泣きごとが少なかった、と思います。

Hikigaeru

今回の出会いはホトトギス。ヒキガエルくん、ヘビです。

一軒茶屋に10:20に到着。かなりいいペースだ。
六甲山山頂は標高931メートル。視界が霞んで見晴らしはきかなかったが、自宅の窓から見上げるあの山に、いま立っていると思うと達成感が出てきた。

休憩をはさんで11:00に頂上を出発。ここからは下りで、魚屋道(ととやみち)を通って有馬をめざす。下りは余裕がでて景色が楽しめるようになった。

Totoyamichi

魚屋道。心地よい道をゆく。

六甲有馬のロープーウェーがゆく。

Photo

1時間余りで有馬温泉に到着。今回の私の楽しみは何といっても温泉。公衆浴場の銀の湯で山登りの汗を流す。でも、ちょっとお湯の温度が高くて余計に疲れが出てきた。有馬からはバスで40分。さくらやまなみバスが開通したので、西宮まで楽に帰ってこれた。

Arima2

ところで、登りが苦手な私は、どうもがんばりすぎているようだ。
ゆる体操で有名な高岡英夫さんの『「ゆる」身体・脳革命』(講談社α文庫)に、マラソンランナー野口みずきさんのトレーニング姿が紹介されていた。野口さんが走るとき、藤田監督は「きついところだから、がんばるな。」と声をかけていたそう。頑張って身体がこわばってしまうと上手く走れない。身体がゆるんでいてこそ、能力が発揮できるそうだ。

そういえば思い当たる。山道で蜩の「カナカナ」、鳥のさえずり、川のせせらぎを聞くと、楽に歩けるようになったのは、身体がゆるんだからなんだ。これからは山の「癒し」効果を味方につけて、楽しんで登ることにしよう。 

   空味

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宝塚の基本構造

            (ジャン=クロード・ヴァカイエ著)

                      

一 はじめに

 宝塚市は北に中山連峰、東に加茂丘陵を望む六甲山の東端に位置する地方都市である。街の中心部を貫流している武庫川は、かつてこの地が二つの郡に分けられていた時、その境界をなしていた。「宝塚」という地名は、以前当地にあった古墳に付けられた呼称がもとになっているという。その宝塚古墳は、川面村川面安場つまり現在のJR宝塚駅北の台にあった。古墳自体は宅地開発によって原形を失い、辛うじて江戸時代の古い絵地図によって、その存在が知られるのみである。古墳の規模は、都市全体の名となるにはあまりに小さいものであったが、「宝」という字が何か豊かなものを連想させるためか、石器時代からの遺跡の多いこの地の代表的な名称となっていたようである。

 宝塚市はもともとしょうきぼな温泉地に過ぎなかったのだが、阪急電鉄の開発事業によって大々的に発展していった。それにはここを根拠地とする「宝塚歌劇団」の存在が大きく関わっている。この劇団は演技者がすべて女性であり、それを取り巻く観衆も殆どが女性であるという特殊なものである。演じられるのは日本、アジア、西洋の恋愛を中心とする物語で、時代は古代、中世、近世、近代、現代をカバーし、地域も時代も広範囲にわたり、バラエティーに富んだものである。ただし、それらの物語はすべてどれをとってもあるひとつのイメージへと向かう演出がなされており、宗教的な儀式にも比せられるような整然たる様式をそなえているのである。

 演技者間の秩序は、かなり厳格に規定されており、レヴューにおける服装ひとつでその演技者の序列が分る仕組みになっている。それにより、圧倒的な統率がなされ、非常な様式美を生みだすに至っているのである。それはあまりにも独特の世界である。その閉じられた性質により、宝塚歌劇はしばしば「秘密の花園」とも言われる。この小論では、閉じられた「宝塚」の構造を分析することにより、その極度に形式化された美の様態について考察していきたい。

二 概要

 宝塚歌劇団は、阪急電気鉄道株式会社によって大正二年(一九一三)七月、「宝塚唱歌隊」として設立された。もとは温泉町に人を呼ぶための余興であった。名称は後に「宝塚少女歌劇団」となり、昭和十五年(一九四〇)に現在の「宝塚歌劇団」へと改められた。本拠地は宝塚栄町にある宝塚大劇場である。

 ここでは先に述べたように演技者のすべてが女性であり、宝塚音楽学校(二年制、大正七年設立)の卒業者以外は、舞台に立つことが出来ない制度になっている。この「学校」という形は歌劇団全体に浸透する象徴であり、有形無形の影響力を持っている。それゆえ、舞台に立つ演技者はどんなに高齢になろうとも、退団するまで「生徒」と呼ばれるのである。

 音楽学校を卒業したものは、余程の事情がない限りみな宝塚歌劇団に入団し、「研究科○年」となる。研究科七年になると、一応全員退団という形をとり、八年からは「女子演技者」として歌劇団と個人的に契約をする形となる。生徒たちは小さい劇団ともいえる五つの組に振り分けられ、そこで各組ごとの公演に参加するのである。年齢を加えて主だった役や若者の役を演じることが困難であると判断した/された者は、本当に退団するか(宝塚では「卒業」といわれる)、「専科」と呼ばれる脇役専門の部署に移る/移らされる。ただし平成十二年(二〇〇〇)から、各組の二番手が専科へ移り、どの組の公演にも出演できるという制度に改められ、これまでのイメージを一部刷新した。

三 「組」という組織

 ここで重要なのが、先ほど若干触れた「組」と呼ばれる内部組織の存在である。現在のところ「組」は五つあり、それぞれ「雪」「月」「花」「星」「宙」という漢字一文字による名称がつけられている。これらの名称がトーテムでないことはもろもろの理由から説明できる。ともすればこれらの「組」は、「雪」や「花」というトーテムによって統制された団体で、各自何かしら雪や花に関連した象徴を持つことによって、ひとつの氏族的な集団を形成していると思われるかも知れない。

 しかし、それは大変な誤りなのだ。「花」という文字と「花組」とその編成者の間には一見密接な関連があるようにみえて、実は単に互いの、或いは観客へ向けられた認識のためのコード以上のものではないのである。生徒(演技者)たちにしても「花」や「雪」といった文字そのものへの思い入れはそれほど強くない。ただしこれらの漢字が適当に、何の考えもなしに選択されたのでないことは確かである。

 他の四組よりかなり遅れて発足した「宙組」(平成十年〔一九九八〕一月)の名称はその前年一般公募されたが、宝塚歌劇団は公募にあたり「無作為に抽出する」といいながら、次のような限定を設けたのである。

「現在の各組とのバランス上、平仮名、カタカナ及びローマ字のもの、漢字二文字以上のもの、あるいは平仮名で四文字以上のものは対象外とする。具体的な動物名又は植物名のものは対象外とする。宝塚歌劇団のイメージから相応しくないとおもわれるもの(土・芋・哀・鬼など)は対象外とする」

 最後の「宝塚歌劇団のイメージ」という部分は世界観の表象ともいえ、相当に重要な要素である。直前の項目で「具体的な動物名又は植物名のものは対象外とする」と断っておきながら、次に「イメージから相応しくないもの」として、敢て「芋」を挙げていることからも分るように、「宝塚的」イメージというものが厳然として存在するのである。

 そして「芋」という単語は(漢字一文字で発音が平仮名二文字で構成されるこの語は、殆どあらゆる点で「花」や「月」などに酷似しているのだが)甚だしく宝塚のイメージを損なうものとして忌み嫌われているのである。組の名前にはそういったややこしい基準をすべて満たしたことばが選ばれ、組全体を象徴するという役割を担っているのである。従って、「芋」や「臭」といった夢やロマンではなく、どちらかといえばユーモアを感じさせる名前を付けるわけにはいかないのである。この世界は徹底してイメージ優先なのである/でなくてはならない。

 各組には平均約八十名ほどの生徒が所属する。組全体を統率しているのは最年長者の「組長・副組長」と呼ばれる人たちであるが、彼女らが表に現れることは滅多にない。常に前面に出て人々の視線にさらされるのが「トップ」という役割の生徒である。おおむね研究科八~十二年くらいの生徒がこの役割を担うことになっている。「トップ」は各組に一人ずつで、合計五人いることになる。ここで注意を促したいのは、女性ばかりの歌劇団であるため、男性の役も女性がこなすということである。こなす、というよりも、宝塚で最も特徴的なのがこの男役の存在であり、地位も注目度も娘役に比べて高い。

 そして「トップ」は必ず男役の中から選抜されるのである。「トップ」の次は「準トップ」或いは「二番手」といい、「四番手」までこの種の呼称が使われる。娘役にも「トップ」はあるのだが、席次においては三番目であり、娘役の「二番手」は事実上存在しても、「トップ」としての席次がつけられることはないのである。

 この原則は五組すべてで守られており、決して破られることはない。誰がそれらの地位につくかは、厳格に規定されてはいない。入団した年次、人気、歌や踊りの実力などが考慮されることは確かであるが、歌劇団から通達があるまでは分らないのである。システムが一般に公開されておらず、時に頗る恣意的と思われる選抜がなされることもあるが、その決定は絶対であり、覆されることはまずない。

「トップ」という地位は、全てではないにしても大多数の生徒の目指すところであり、そこへ至る道のりは長く険しく時に莫大な金がかかる。そして一度輝かしい上昇のコースを外れると、個人の力で立ち直ることは不可能である。

四 宝塚音楽学校

 演技者として宝塚歌劇団という独自の機構へ入るには、ひとつの道しかない。すなわち演技者養成機関としての宝塚音楽学校へ入学することである。受験資格は義務教育を終了した中学卒から高校卒まで(十五歳~十八歳)の女性であれば誰でも「受験資格」を有するが、「入学資格」にはさまざまな条件が付加されるため、それらをクリアしなくては(していなくては)ならない。合格の倍率は年々上昇の傾向にあり(二〇〇一年現在)、近年では「東の東大、西の宝塚」といわれるほどの難関となり、他に類を見ない突兀たる倍率を誇っているのである。

 試験は一次から三次まである。一次は面接、二次は声楽、バレエの実技、面接、三次は面接である。面接が、三度ある。宝塚歌劇団へ入るには、極度に「容姿端麗」が求められるのである。「顔なんて。人間は中身で勝負だ」といった言説は、ここでは徹底的に排除されるのである。宝塚歌劇団のモットーは「清く正しく美しく」である。最後の「美しく」が、扇の要のごとく前の二つを束ねていることが分る。つまりいくら「清く正しく」ても、「美しく」なければ相手にされないのである。逆に言えば「美しく」ありさえすれば、少しくらい「清く正しく」なくても、受け入れてもらえるというわけだ。そういった身もふたもないことをこの音楽学校は平気で行なうのである。いやこういったことが行なわれるからこそ、現在の高倍率があるのである。ともあれ、三度の面接によって、入学者は慎重に選ばれる。

 宝塚音楽学校は二年制で予科と本科がある。予科生は入学と同時にさまざまな規則/規則化した慣習に縛られる。上級生である本科生に対しては絶対服従で、この一年間ありとあらゆる締め付けが行なわれる。寮に入った予科生が、本科生を恐れるあまり、しばらく風呂にも食堂にも近寄れなかったという報告がしばしばなされているのはその現れであろう。
 そのかわり本科生になると、上下関係にまつわる多くのしきたりから一度に解放され、一転して天国のような日々が待っている。事実この時期が一番愉しかったと回想する生徒もいるくらいである。授業内容は殆ど全て演劇、声楽、舞踊など舞台技術に関するものである。国語や数学といった教科教育は一切行なわれない。この過程を終えたものが、晴れて宝塚歌劇団の一員として大劇場の舞台に立てるのである。

五 構造

 宝塚の構造の特徴は、大体において相対する二つの項に分けられる、双分組織的な形態が認められるところである。先ず音楽学校と歌劇団という項があり、音楽学校の中で予科と本科、歌劇団の中で研究科生と女子演技者、組所属者と専科所属者、男役と娘(女)役、若者役と老け役といった対立項に分解できる。この二項は概ね先輩と後輩といった上下関係であると理解され、きっちりと半族をなしている。

 細かく分けていけばきりがないが、以上のような生徒内での上下関係の他に、演出家(脚本家)と演技者、または声楽、ダンスの先生と生徒という区分もある。これらは幾重にも重なった入れ子構造となっているのである。そしてこの入れ子は、上の方に「理事」「演出家」「各種の先生」「観客」と、下の方に「研究科」「専科」「本科」「予科」という双分組織モデルを形作っている(同じ双分内では、先に書いたものがあとに書いたものよりも力を持っている)。

 同期生の間では、公的には成績によって序列が決められる。入団時及び研究科一年、三年、五年の成績は、これによってよい役が付くかどうかが決まるので、重要である。

六 ファン、藝名

 上記の双分組織モデルの中に「観客」を入れたのには訳がある。一般の演藝であれば、観客は無視して差し支えないかも知れないが、宝塚には「タニマチ」ともいうべき熱狂的なファンが存在するのである。彼女ら(と性を限定するのは、男性はいくら熱狂的な支持者でも、こうしたファンのなかに入れてもらえることは構造的にあり得ないからである)はある特定の生徒(自分がこれぞと思った人)のファンクラブを結成し、以後盲目的ともいえる愛情と献身的な奉仕をその生徒に捧げるのである。余程のことがない限り、それは生徒の退団(卒業)まで続けられる。

 まさに女王様と忠実な家臣にも比せられる関係で、アプリオリなマゾヒズムさえ感じられる。ファンクラブの会員、特に幹部会員の入れあげようは凄まじいもので、普通一般の者には到底信じられないだろう。朝夕の送迎から食事(弁当であるがしばしばあまりにも巨大で、生徒ももてあますことがあるという)、劇場における着替えの差し入れ、掃除洗濯に至るまでファンクラブ会員の手で行なわれるのである。

 勿論そんな事をしたからといって、一文にもなりはしない。まったくのボランティアである。第一ファンクラブ自体が非公式な団体なのである。彼女らは好きな生徒と関わっていられるだけで嬉しいのだ。珍しいといえばこれほど下心の少ない奉仕も珍しい。仕事は他にチケットの買い付け(買い占め)、化粧前(楽屋の小道具類)の充填、楽屋外での出待ち入り待ちなど多岐にわたる。その中でも、楽屋口での送り迎えは圧巻である。そのあまりの「激しさ」に、何も知らない一般人は必ずカルチャーショックを受ける。

 生徒が登場すると同時に周囲を十数人(多ければ数十人)の女性が取り囲み、一斉に「いってらっしゃい」または「おつかれさまでした」と叫ぶのである。問題は数ではなく、そこに流れる空気の密度である。彼女らは一騎当千の強者たちであり、そこらのアイドルやロックバンドに群がる女の子たちとは比較にならない。彼女らは生徒の送り迎えをするためにわざわざ大劇場近くに部屋を借り、時には生徒のためにマンション(億ション)を買ってプレゼントし、「いってらっしゃい」の一言を言うために始発電車でやってくる人たちなのである。アイドルのコンサートなどで、「追っかけ」「親衛隊」などと称するコアファンの一群が観察されるが、これとて宝塚ファンクラブの濃密さには比べるべくもないのである。

 なぜなら、アイドルの親衛隊や追っかけは、どんなに熱狂的であっても、プロモーターやプロダクションスタッフなどによってほぼ完全に個人的関係を遮蔽されているからである。それ対して宝塚のファンクラブの幹部と生徒の間には、その遮蔽幕がないのである。殆ど家族以上の繋がりであり、彼女たちが生徒を「養っている」とさえいえるのだ。そこまで行き着いたファンはすでにただの観客ではない。宝塚という組織の同心円のひとつとして、内部に繰り込まれているといえるだろう。

 宝塚の複合的入れ子構造を形成する要素のひとつに、藝名がある。藝名は基本的に自己申告制で、音楽学校本科の文化祭の時発表される。およそ皆「春日野八千代」や「鳳蘭」、「初風緑」、「花影アリス」といった、およそ宝塚的としか形容できない、ある種独特の名前を付ける。「芋野つる子」といったようなマヌケな名前は認められない。
 この時点で彼女らは本名・藝名・ニックネームという三種類の名前を持つことになる。ニックネームは音楽学校へ入学するとすぐ、ホームルームのような時間に予科生全員が集まって決める習わしがあるほど大きな存在であって、無視できない。ファンは藝名ではなくニックネームで生徒を呼ぶのがステイタスのようになっている。

 ニックネームは、例えば「美咲ゆり」という藝名の生徒の本名が「山田多子」であったら、「ターコ」といった具合に決定される(無論名前からの連想だけでなく、さまざまな要素がニックネーム決定には入り込み、定式化は出来ない)。ファンは「ゆりさん」というよりは「ターコさん」といったほうがより「通」であり、その生徒になじんでいることになる。「美咲ゆり」を「ターコさん」と呼ぶことによって、ファンは生徒の家族のような位置につくことができるのである。他の藝能界ではこういう現象は起こりにくい。
 せいぜい親しい友人のように錯覚することはあっても、そのタレントの家族と同等の位置を占めることは先ずないからである。宝塚のファンは「美咲ゆり」を「ターコさん」と呼び、ファンクラブの会員になったとき、生徒の亜家族になると同時に、歌劇団の組織の一部に事実上取り込まれたことになるのである。事実上、というのは歌劇団がどういうわけか未だにファンクラブの存在を公式には認めていないからである。

七 結びにかえて

 宝塚はテレビタレントなどが所属する所謂藝能界と違い、常に内へ内へと収斂してゆく性質を持っている。藝能界はテレビという非常に円熟したメディアと直結しているため、どうしても外へ開き、突出する方向へと向かわざるを得ない。

 宝塚の特殊性は、女性だけの集団という実体と関わりがあるようである。宝塚は異常なほど「男」の存在を隠そうとする。理事をはじめ脚本家、演出家、楽団など、演技者を除くほぼ全ての重要なポストが男性(原理)で占められているにも関わらず、その隠蔽工作は完璧で、殆ど藝術的ともいえる完成度に達している。例えば理事であり脚本家でもある植田紳爾など、『歌劇』や『宝塚グラフ』などの雑誌にも実に頻繁に登場するのだが、存在感はきわめて薄い。載せられている顔写真も、どこか立体感を欠いているのである。名作といわれている『ベルサイユのばら』は彼の脚本であるが、そこから「男」の視線を感じることは難しい。それだけ隠れ方が技神に入っているといえるだろう。

 あるいは自分たちが動かしていると思っていた宝塚に、いつの間にか動かされるようになっていたともいえるかも知れない。結婚した男が、いつの間にか妻の尻に敷かれていくように、養分だけを吸い取られた彼らは、徐々にその存在感を薄れさせていったのである。実際に権力を持っているのは彼ら理事のはずなのだが、宝塚という巨大なエネルギーに飲み込まれてしまい、動かしているのか動かされているのか判然としない状態になってきたのである。

 その点、藝能界は様子が違う。どんな美少女アイドルの後ろにも、彼女を操る「男」の存在を確認することができるからである(「男」は実際には女性である場合もあるが、ここでは「男性原理」に当たるものとして「男」と表記した)。これはその社会構造と、そなえている性質の違いである。つまりジャック・デリダが『尖筆とエクリチュール』において述べたことを当てはめれば、藝能界は外に開かれているという点で男性的であり、宝塚は内へと収斂するという性質において女性的なのである。

 宝塚の誇る様式美は整然たるものである。「可視化された王権」の様態を彷彿とさせるかのように、舞台上の立ち位置、服装、登場する場面などによって、厳格な序列化が行なわれている。それがかの大階段、羽根付きの衣装に象徴される豪華絢爛たるエクストラヴァガンツァなのである。にもかかわらず、ある一点では完全な論理かが行なわれることを拒否するところがあり、舞台は厳密な概念規定によって作り上げられるのではなく、あるひとつの方向性を示すイメージによって構成されているのである。 

 宝塚の舞台は、確実な論理の構築によって成り立っているのではなく、煌めくようなイメージの断片の織物(テクスト)として構成されている。それをただ無作為に並べるのではなく、さまざまな秩序を定め、点を線とする工夫が凝らされているのだ。しかし、実際には個人の力量というよりも、そういったこと全てを統合した全体の迫力が観衆を圧倒することになる。厳格に様式を定められた集団が一斉に動くとき、煌めくような断片の数々は端的に我々の身体へと作用し、夢うつつのうちに、あらゆる論理を超えた立体的な情感として知覚されるのである。

(風海 訳)

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氣の意志法と山の効用

 習っている合氣道に、「氣の意志法」というトレーニング法がある。自分の意識を天地いっぱいに拡大する「拡大法」と、臍下の一点を無限小に集中する「集中法」を交互に行うのである。地味なトレーニングだが、これに通暁すると、爆発的なパワーを発揮できる(らしい)。

 集中法は、なんとなく身体感覚を伴うのでやりやすいけれど、拡大法はどこかで雲散霧消するのでずっとやりにくかった。今日、ロマンチストY田S先生の授業でこの意志法を行い、「拡大した意識のままで集中法へ移り、またその逆も行う」という意味のことを教わった。おそらく、その連続性を強調されたのであろう。

 街へ出るまでの間に歩きながらそれを思い出し、なんとなく感覚できるいっぱいのところまで意識していると、自然に一点の方もできているような氣がし始めた。また、この「意識が広がる」という感覚は、街中のような狭い所にばかりいては、なかなかつかみにくい。しかし、今日はなぜかその感じが上手く分かったような氣がしたのである。

 以前、怪人M野M先生の授業で、見晴らしのいい山の上から下を見下ろして、「ああいい景色だなあ」と感じるその心が拡大法である、と教わった。意味は分ったが実感は伴っていなかった。それが、このたび山へ行き、高くはないけれど一応頂上から、眼下に見える景色のよさに感動する、という経験をしてみると、M野先生の言葉が身体感覚として理解できたように思う。先生は偉い。山は偉い。

 そうして、ぼくは初めて意志法の「氣持よさ」を体感したのだった。合氣道は意志法だ、といっても過言ではないくらい、「心の使い方」(「氣を出すとは、心を正しく使うことである」と主張する藤平光一『氣の話』を参照)が技を左右するので、意志法は継続してやっておきたいと、遅ればせながら実感した次第である。

        風海

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自己責任なき山歩きの横行

 電車に乗っていて、『WEDGE』という雑誌の広告が出ているのを見かけたのだが、羽根田治(フリーライター)による「自己責任なき山歩きの横行を許すな 救助費の自己負担を検討せよ」という論文(評論)が掲載されているそうだ。

 中身は読んでない。しかし、タイトルだけで、何が主張されているかは明らかだろう。みんな軽々しく山へ出かけて行って、簡単に遭難し、それで救助隊を出動させすぎる。ちっとは自重させるために、救助費を自己負担にすればいい、という趣旨だろう(違っていたら羽根田さん、ごめんなさい)。

 たしかに、山歩きの人口は大変なもので、救助隊の年間出動費用もばかにはならないものなのだろう。いくら気をつけていても、事故はおこるものである。ぼくの恩師も、奈良のどこかの沢で危うく落命しかけている。安易に山へ行って、それで遭難されてはたまらん、と思うのも当然である。

 しかし、救助費を自己負担にしても、山歩きの人口は減らず、年間出動回数も減らないだろう。第一、自分が事故にあうことを前提に山へ行く人はいない。問題は、事故が起きたときに、「山の管理責任」等を問いかねない人々の心性ではないか。

 自分で滑ってけがをして置いて、山の管理者の責任を追及する(天災を人災と無理に読み替える)人が多いと思う。だから保津川下りも中止になったし、山に不細工な手すりなどが付けられるようになっている。要するになんでも金を要求するという態度がきつくなっているから、何かの管理者は常にピリピリしていなくてはならなくなったのである。

 以前某体育協会が主催するサッカーの試合か何かで、落雷によって生徒が半身不随になり、何億円という賠償を命ぜられて協会自体が解散したという話がある。当事者にしたら、当然の要求なのだろうが、こういうことが度重なると、善意のボランティアが全く機能しなくなる恐れもあるように思う。

 だから、救助費の自己負担ではなく、山の管理責任を問うてはならない、というように主張する方がいいのではあるまいか。その方が管理者は楽だし、自然の破壊も進まなくて済む。

 などということを書いておいて、ぼくは明日山へ行こうとしている。といってもハイキング程度のものであるが、山はどういう姿を見せるか分からないので注意が必要である。せいぜい氣をつけて、救助隊にも病院にも、また裁判所にもお世話にならないようにしたい。一歩一歩が祈りだと考えて、歩きたいと思う。

        風海

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宝塚雪組公演観劇

 久々に宝塚歌劇を観た。前に観たのが宙組・和央ようか、花總まりのさよなら公演で、今回行ったのが雪組・水夏希、愛原実花のさよなら公演だから、サヨナラだけがなんとやら…ということなのか、妙なシンクロである。
 学校の先輩に誘われて観にいくことにしたのだが、直前に先輩仕事が入ってキャンセル、結局一人で出かけていった。

 演目は歌劇が「ロジェ」、レヴューが「ロック・オン」、と書いても何の事だか分からないが、さりとて筋を説明するのも面倒だから書かないが、ぼくはそういうところではないところを今回注視していた。

 まず演技者の「姿勢」、「動き」。これらは「バランス」「リズム」「ラージネス」と分けることができる。トップスターだけでなく、どんな端役の生徒さんも、みな姿勢が良くて、バランスがとれ、動きがシャープで、リズムが合っていて、氣が出ている(ラージネスが表現されている)。

 レヴューなんかは、動きが激しく、しかも底の厚いブーツや高いヒールを履いて、くるくる回ったり足を高く上げたり、それを歌いながらやるのだから、途中息が切れたりバランスを崩すことがあってもおかしくないのに、全くそれがない(それがタカラヅカだ)。おそらく、武道の高段者にしてはじめてなしうる身体運用を、彼女達はやすやすと行っているのである。

 決め手はバランスだろう。バランスは、その重心がどこに落ちているか、軸ができているかによって決まる。そして、ぼくの習っている合氣道の団体では、それを「臍下の一点ができている」と表現する。

 タカラヅカの演技者達は、ぼくの見たところ、みな「一点」ができている。一点などという言葉は知らないかもしれないが、身体でそれを知っているのだろう。よくみると、すばやいターンや動きのつなぎの場面では、すり足に近いステップでバランスを取っている。

 宝塚音楽学校では、バレエ、日本舞踊、モダンダンスなどの授業があるので、そういった各種の技芸(アート)を通じて、あの身体運動を獲得したのであろう。タカラヅカは日本の誇る総合芸術である。それは、図らずも東洋(日舞に代表される)と西洋(バレエに代表される)の融合であり、おそらくその身体は世界に例を見ない高度なパフォーマンスに達していると思われる。

 以前、大劇場のそばで、幾人かの生徒さんが連れ立って歩いているのを見かけたが、男役がリーゼントで決めているという「押し出し」の強さと共に、その歩く姿勢の隙のなさが、武術家のようだという印象を強く持ったことがある。今回そういう視点でじっくり見てみて、やっぱりあのときの感じは間違いではなかったのだ、という思いを強く持ったのである。

            風海

(レヴューの一場面:毎日新聞ホームページより転載)       

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サンジャックへの遠い道のり-その2-

気楽なハイキング程度に考えていた私にとって、ロックガーデンは想定外で驚いたものの、慣れてくれば楽しめる登りだった。

その後の風吹岩から雨ケ峠までの緩やかな登りの方が「身体にきてしまった」という感じだ。
初挑戦でも3時間あれば帰ってこれると計画していた私たちは「お昼ご飯は下山してからでいいよね」と、バナナ一本ずつしかリュックに入れていなかった。危険と隣り合わせの山行きにもかかわらずである。
私は完全にガス欠状態で、途中からお腹がすいて力が出ない。雨ケ峠でお弁当を食べるハイカー達を見て、空腹はさらに加速する。道端に捨てられた飴ちゃんの袋さえもうらめしい。本当にアンパンマンに助けてもらいたい気分。しかも、疲労物質が溜まってきたのか、足取りが重くなる。
「もうあかん。足が一歩も動かへん」と思っても、歩かないことには食べ物にもありつけない。

大袈裟かもしれないが、自分の限界を感じながらも、途中で止めることはできず、一歩一歩、進んで行くしかないという行為は、人生に通じるものがあるだろう。辛い。

雨ケ峠を過ぎ、東お多福山までのコースは打って変わって心地良い道だ。視界が広がる明るいササの草原を進む。後方には神戸の街も見えている。
すぐ側からはウグイス、西の峰からは「カナカナカナ」と蜩の声が
聞こえてきて気持ちが楽になった。

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( 気持ちいいササの道。この眺めが見られる
  のなら、また来たいな。)

東お多福山山頂からは一気に下り。この下りが、空腹も忘れるぐらい足にきた。ようよう車道に出て、ちょうどやってきたバスに乗り込み、出発点の阪急芦屋川駅に戻る。予定時間を大幅に超過して4時間半の行程となった。バスで下れば10分の道のりである。

ところで、山登りの難しさは年齢に比例しない。
ヒイヒイ言ってる私の横を、談笑しながら歩く60代のご婦人方、ランニングシャツ&短パン姿で、街なかをマラソンするかのように通りすぎていった高齢の男性に比べると、私の体力・筋肉の方が完全に「老化」している。でも、年齢に比例しないのなら、これからのトレーニング次第で山登りをもっと楽しめるチャンスがあるということだ。

サンチャゴ・デ・コンポステラへの道には、ピレネー越えが待っている。克服するにはまだまだ遠い道のり。今回はそれが分かっただけでも成果があったかな。

 空味

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サンジャックへの遠い道のり-その1-

「もうあかん。足が一歩も動かへん」

梅雨が明け、サンジャックへのトレーニングを再開した。
すっきりとした青空のもと、六甲山系の山登りである。
コースは、阪急芦屋川駅を出発し標高697メートルの東お多福山を目指して歩く6.5キロの道のりだ。ガイド・ブックには、難易度は初級向けで2時間20分のコースとあるし、小さい子供でも登れるみたい。
「これなら私でも大丈夫。楽勝やん」と踏んでいたのが、大きな間違いであったことを、山中でやっと知るのである。

第一の難関は、芦屋ロックガーデン。むき出しの花崗岩をよじ登るコースだ。帰宅後にガイド・ブックをよく読むと「日本のロッククライミング発祥の地」とある。
確かに…。
「ロッククライミング」という言葉から想像すると、この岩場は完全に楽な方だと思うが、私にとっては修行の場。登るコツが分からなくて、風海さんに上から引っ張ってもらわないと進めない場所がいくつかあった。

岩場を登るには手足はもちろん、腹筋を使わないといけないし、誤ったところに力を入れると上手く登れない。手足を岩の何処に置くかを考えながら進む必要もある。スポーツ・ジムで最新のマシーンに身を任せ、ただ身体を動かすのとは、大きな差がある。

さて、岩場を越え、やっと登れた!と思うと、視界の先に新たな岩場が。「まだ続くの(泣)」と弱音を吐いても、もうここまで来たら戻れません。苦しい道のり。何故だか、準備中の博士論文を思い出した。

山中ではこんな出会いも。
野性の六甲山イノシシ。
前方を行くハイカーから「出没」情報を聞き、途中何度か彼らが去るまで待機するシーンがあった。

風吹岩に向かう少し広い道でハイカーが立ち往生し、なぜか木に登っている男性がいる。こんな所で木登り?と思って前方を見ると大きなイノシシが。何とリュックを獰猛につつきまわしている。イノシシに襲いかかられた人が、リュックを投げ捨てて逃げたのだそう。木登りおじさんは彼の連れで、逃げるためにとった行動だということが分かった。イノシシに慣れたハイカーが扇子で(!)追い払い、リュックを放してやっと退散。

Inoshishi

襲われたハイカーは山登りが慣れている山男風の男性だった。大きなリュックにはお弁当やカメラが入っていたのだそう。襲われた時にリュックを身から放したのが幸いして、けがはないようだ。六甲山のイノシシは、リュックに食糧が入っているのを知っているのだろう。

こんなハプニングに会いながら、ようやく標高400メートル余りの風吹岩に到着。ここからの眺めは大阪湾を中心に芦屋市内、西宮の浜、大阪のビル群、生駒・葛城・金剛山、大峰山の方まで見渡せる絶景だ。ここまで登ってきたという思いが、この眺めをさらに特別なものにしている。
さて、体力を補うためにちょっと一休みしてバナナで栄養補給をし、先を目指す。とはいえ、まだ行程の半分にも達していない。本当のしんどさはこれから始まるのである。

つづく。

    空味

Kazefuki

風吹岩からの眺め

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突然のアタリ

 久々に小説を読みたい気分になって、紀伊国屋書店をうろついていた。
 そこは本の海である。ありとあらゆる書物が、すきあらば深海へ引きずり込もうと、大波小波を立てている。そんな場所だから、ただ「小説が読みたい」というだけの検索項目で、何かいい本に巡りあうことは不可能に等しい。

 ふと思い立って、こういう時は、信用のおける人のお勧めに従うのが一番だから、須賀さんにお願いしようと、外国文学の棚に行く。そして、須賀敦子訳の小説を探すと、はじめに見つかったのが、アントニオ・タブッキの『供述によるとペレイラは…』(須賀敦子訳、白水Uブックス、2000)であった。

 開いてみると、生と死の問題とか、1938年とか、ポルトガルとかファシストといった文字が見え、ぼくの興味の範疇ではないとその時は思ったが、他に食指の動くものもなく、須賀さんなら大丈夫という絶対の自信もあったから、その本買って電車の中で読み始めた。

 読み始めてすぐに、これは当たりだ、と思った。ポルトガルの『リスボア』という新聞の文芸担当者ペレイラが、作家の死亡記事を書く書き手を一人募ろうとして、ある雑誌に論文を載せていたロッシというイタリア系の青年にコンタクトをするところから話は始まる。

 青年はマルタという赤毛の女の子を愛していて、彼女が実は政治運動の活動家で、知らない間にペレイラもロッシを通じて政治的な活動へ入りこんでしまう、という筋書きを、そのまま書いただけでは全く面白くないだろう。

 ペレイラがロッシの悲惨な最期を目撃する最後の場面まで、何がどうということはない話の連続で、構成されている。ところが、この一見何ということもない話が、無類に面白いのである。

 たとえばヘンリー・ジェイムズの『アスパンの恋文』(行方昭夫訳、岩波文庫、1998)とか、またはジェイン・オースチンの作品とかのように、とりわけ何かの事件が起こるわけでもないのに、読み出したらやめられない、という作品がぼくは好きなのだ。

 そして、ペレイラに別れを告げたぼくは、須賀さんのガイドでタブッキの後を追いかけ始めている。『遠い水平線』は難解だったが、『インド夜想曲』は「予感」がする。しばらく文字を読む楽しさに浸れそうである。

           風海

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江戸ルネッサンス、もしくは文化財等の「復元」

 ずっと不思議だったことがある。
 史跡とか景観とか、文化財といったようなものを「復元」する、と一般によくいわれるが、どこの時点を「元」として、「復」するのか、分からなかった。

 だって、たとえば法隆寺なら、ざっと千五百年はそこに存在しているんである。平安時代にもあったし、室町時代にも、明治時代にもあった。で、鎌倉時代の様式に戻したら、室町や平安はどうなる、という声がするし、飛鳥時代当時のものがどうだったかは、ほとんどファンタジーの世界だから、「復元」は難しい。

 で、いつだよ「元」って、と思っていたわけだ。

 しばらく忘れていたけれど、このあいだ空味さんと話していて、史跡というものが、江戸時代に認定されるようになった、という話を聞いた。

 それだ、と思ったわけです。

 「史跡」とか、「名所」という概念が生まれ、もしくは定義が確定した時点を、「元」とすれば、すっきりするように思う。もしくは、その概念が生まれたとき、「史跡」のモデルをどの時代に取ったかが分かれば、そこまで戻ってもいい。

 江戸時代は近世市民社会である。それは、十一世紀の中国、十四~十五世紀のイタリア(ドイツ、フランスはもう少し遅れる)が近世市民社会であるのと同じである。そして、それらの時代は、「ルネッサンス」とよばれる。

 それぞれ国も時代も違うけれど、同じようにそう呼ばれるということは、同じ要素があるということである。それは、ひとつは、「史跡」「文化財」などというものがあることに気づき、積極的に保存し、またはそれらに学ぶ建築様式などが生まれる、という点だろう。

 もうひとつは、「文人の時代」、である。文芸文化に関連する人間が、その時代のドミナント・フォームを牽引するグループを形成するわけで、そこからさまざまな技術体系が生まれてくる。イタリア・ルネッサンスはその好例である。無論中国の宋代にも、江戸時代にも当てはまると思う。

 で、現在「史跡の復元」というとき、平安時代や奈良時代はさておき、江戸時代にそうであった姿を復元すればよいのである。とはいえ、発掘された集落のあとや、「平城京」などは、江戸時代にはすでに土の中であったから、ファンタジーを覚悟で「奈良時代」当時を目指すしかないわけであるが。

 まあ、何事にも例外はある、というか反証可能性とか例外があることこそが、「学問」の条件なのだから(記憶違いかもしれないが)。

          風海

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研究するとは別の仕方で

 長いこと同じことやっていると、情熱がなくなるんだって。

 特に研究者は、教授になっても初期の情熱を維持するのは難しいそうな。
 山内志朗『ぎりぎり合格への論文マニュアル』(平凡社新書、2001)にも、「自分にもすでに情熱はない」と書かれている。

 この本は、だから惰性で論文書いている人が、どうにか卒論を書きたいという人へ向けてのアドバイスをするという体裁で書かれているのである。

 ぼくはこの本を、香山リカさんの著書で知って、さっそく買って読んだのだけど、あまり得るところはなかった。論文の、注とか本文の体裁のようなところばかり丁寧に解説してあり、肝心の(とぼくが思うだけか)テーマや書き方そのものは、「オリジナルなんて出さなくていい」とかいって、するりとかわしているんである。

 香山さんが卒論指導していて、テーマも見つけられないし、どう書いていいか分からない、という学生のために、窮余の一策としてこの本を渡すことにしている、というものだから、香山さんは重宝しているようだけれど、ぼくには使いどころのないものだった。

 そして、思ったのは、論文というのはなんという表面的な部分で評価されてしまうのだろうかということだった。いや、中身が肝心、というかもしれないが、それ以前に体裁のところで各学界の指定するフォーマットに則っていなかったら、端から相手にされないのだから、同じことである。

 しかし、書く内容は毎回変わるはずなのに、どうして情熱を失ってしまうのだろうか。ぼくの仮説を提示すれば、先生方がみんな研究をする土壌ができていない、ということだろう。それは、学校のシステムが、ということに表向きなるのだけれど、やはり一人一人の自覚に待つところが大きくて、最大公約数的に見て、情熱を維持する方向へ行っていないというのが現状だろう。

 そういうわけで、詰まらん分析はおいといて、ぼくはぼくなりに、「研究するとは別の仕方で」研究していきたいと思っている。仕事ではないから、情熱がなくなったら、さっさとやめる、という公約つきで。

           風海

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