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自分探しの旅-理論編・その二

 自分という存在は厳としてここにいるのに、それを探すとはどういうことだろうか。キリスト教の「霊魂不滅」に代表される、ずっと変化しない自分というものと、仏教の「諸行無常」に代表される変化してやまない自分。どちらが正しいではなく、しっくりくるかといえば、やはりぼくにとっては後者である。髪を切っただけで、「別人みたい」と言われることがある。「みたい」ではなく、もしかしたら本当に「別人」なのかも知れないとふと思う。「自分探し」という言葉を使うか使わないかはともかくとして、人生というものは、高速で変化する自分を追いかける旅なのかもしれない。

 パワースポットへ出かけ、僧侶や霊能者に出会い、「エネルギーをもらった」と言う。何のことはない、「加持祈祷」である。その瞬間、ぼくたちは解脱するかどうかはさておいて、仏(神霊)の要素を取り込んでいる。ということは、ぼくはもう一瞬前のぼくではなくなったと言うことである。

 何かを学ぶことも同様だろう。何かを学び身につけたあと、それ以前の自分と一ミリも変化していない、と言えるだろうか。一ミリも変化していないかのように、安定的な頑固さを発揮する友人もいることはいるが、彼とて全身を構成している物質は絶えず入れ替わっているのだ。もしそうでなければ、人は死んでしまう。動的平衡である。それが生命というもので、自分と言うのは生命の上に載っているシステムなのだから、生命の状態の変化に合わせて、システムも改変されるのが当たり前なのである。

 だから、自分探しというものに意味はない、と言う人の意見もうなずける。ずっと続く追いかけっこだからである。しかし、心臓が死ぬまで血液を送り出して飽きないように、ぼくたちも瞬時も止まらない何かを仮に「自分」と名づけて探求してもいいのではないか。それに「宇宙」と名づければ宇宙物理学などになり、「生命」と名づければ生物学になり、「真理」といえば神学になる、それだけの違いでしかない。

   風海

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