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2010年5月

サン・ジャックへ行こう ☆

最近、周囲でサンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼に行こうとの声が高まっている。
映画『サン・ジャックへの道』を観て、そのストーリーとともに美しい巡礼道の風景にひかれた。
こんな風景のなかを延々と歩いてみたいが、日頃は30分も歩けば
「しんどい~」
「ちょっと休憩したい~」を連発する私には、フランス(ル・ピュイ)からスペインまで1500㎞もの道のりを踏破するのは不可能に近い。

それでも行きたい。
その道を行けば〈何かが分かる〉と感じるから。

巡礼は、巡礼しているまさにその瞬間こそが意味…と風海さんは言っておられますが、まずは健康に歩くことができてこそ。
そこで、トレーニング&準備である。
毎日コツコツ歩いて体力をつけるのが、一番の課題。
骨量・体力不足の私には、健康管理にもつながるので効果を期待したい。
そして旅に必要な知識と準備をすることが二番目の課題である。

トレーニング決意から5日間、毎日30~40分は歩くようにしている。すでに疲れの色も見えるが巡礼への道はもう始まっている。

空味

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講習会

 大阪市内の体育館で、会長の講習会があった。西日本初の一般講習会ということで、多くの会員が詰めかけ…たらよかったのに、昇段審査会などと時期がかぶったため、当初予定の百人に届かず、ぼくも急遽呼ばれて参加することになった。

 本部長の先生に、日曜日何か予定があるのか、と急に聞かれて、「映画を見ます」などと胡乱なことを言ったため、
「アホか、暇なら合氣道せいっ」
ということになった。ある意味、当然である。

 ほぼ、牛にひかれて善光寺、ではあったが、行ってみてやはりよかったと思う。講習会の内容は「事前に本部の許可なく、サイトや文書で公開してはならない」という規定があり、本部の承諾を取るのも面倒だからここでは公開しない。だから、内容に抵触しない程度に、ごく大雑把にまとめたい。

 講習でやったのは、しかし合氣道ではなかった。技も少しは習ったが、会長は一つの技を教えるのに最低二三時間は必要、という主義で、技をやり始めると時間がなくなるからやらないのだ、と言われた。そしてその代わり行ったのはつまるところ「土台づくり」であった。土台とは、姿勢である。心身統一合氣道では、基本の三要素を「バランス」「リズム」「ラージネス」と表現する。姿勢はバランスに当たる。これはすべての技の基本であり、バランスの悪い状態ではけして技が決まらない。そして、最も奥が深いのが「立ち姿」なのである。

 講習を受けて、できるようになったとは言えない。しかし、方向性は明確になった。いうなれば、目的地がはっきりしたのである。基本である「バランス」の修得。これが、すべての土台であるということの再確認が、今回わかったことだったが、「分かっているけどできていない」ことが分かったのが、最大の収穫だったわけである。この方向で、姿勢を確実に調整して行けば、技は勝手にできるようになるだろう。ということは、一つか二つの技を丁寧に習うより、結局は身になっているということである。

       風海

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例会報告

 5月7日、大阪市内某所にて、宇宙文化研究所例会を開催した。メンバーはA・シマノフ、M・ダウエ、アキヲ君の各氏に風海である。

 ぼくは実質的な利益のまるでない、純粋に知性の戯れだけによる会話を愛してやまないのだが、この例会はいつもそんな具合に進行するから、本当にありがたい。とはいえ、全く何にもなっていないかと言えばそうではなく、ここで活発化した知性の動きが、やがて創造的な活動となって還元されるのである。そのための投資のような意味合いもあるわけだ。だから、すぐ身にならないことはしないと言う人は、実質的と本人が思っているにもかかわらず、実質を失っていると思う。目先の小銭に目を奪われて、一歩先の大金を逃す人のようなものである。

 テーマは大体一貫して「巡礼」だった。巡礼は行く前はもちろん、行った後に意味があるのではない。巡礼しているまさにその瞬間こそが、意味なのである。また、他人ではなく、自分が歩くのである。だから、ともかく行かなくてはならないのだと言うことになる。

 誤解されがちだが、巡礼は「修行」ではない。修行で、たとえば千日回峰などは、行をやめるイコール死を意味する。それほど厳しい状況の中で、徹底的に自分をなくし、かつて自分だったところへ神仏を置換する作業である。だから、仮にぼくが出来なくても、誰か立派な人が成し遂げてくれれば、それで十分である。ぼくはその人を通じて仏様を拝めばいいのだから。

 しかし、巡礼は、ぼくがぼくを追いかける旅なのだ。どこまで行っても、ぼくはぼくに追いつけないし、かといって自分と言うものが神仏にい入れ替わるわけでもない。それでも歩かなくてはならないのは、歩いているまさにその瞬間に「何かがある」に違いないからである。それが何なのかは、巡礼に行ってから、みんなで報告したい。

      風海

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自分探しの旅-理論編・その二

 自分という存在は厳としてここにいるのに、それを探すとはどういうことだろうか。キリスト教の「霊魂不滅」に代表される、ずっと変化しない自分というものと、仏教の「諸行無常」に代表される変化してやまない自分。どちらが正しいではなく、しっくりくるかといえば、やはりぼくにとっては後者である。髪を切っただけで、「別人みたい」と言われることがある。「みたい」ではなく、もしかしたら本当に「別人」なのかも知れないとふと思う。「自分探し」という言葉を使うか使わないかはともかくとして、人生というものは、高速で変化する自分を追いかける旅なのかもしれない。

 パワースポットへ出かけ、僧侶や霊能者に出会い、「エネルギーをもらった」と言う。何のことはない、「加持祈祷」である。その瞬間、ぼくたちは解脱するかどうかはさておいて、仏(神霊)の要素を取り込んでいる。ということは、ぼくはもう一瞬前のぼくではなくなったと言うことである。

 何かを学ぶことも同様だろう。何かを学び身につけたあと、それ以前の自分と一ミリも変化していない、と言えるだろうか。一ミリも変化していないかのように、安定的な頑固さを発揮する友人もいることはいるが、彼とて全身を構成している物質は絶えず入れ替わっているのだ。もしそうでなければ、人は死んでしまう。動的平衡である。それが生命というもので、自分と言うのは生命の上に載っているシステムなのだから、生命の状態の変化に合わせて、システムも改変されるのが当たり前なのである。

 だから、自分探しというものに意味はない、と言う人の意見もうなずける。ずっと続く追いかけっこだからである。しかし、心臓が死ぬまで血液を送り出して飽きないように、ぼくたちも瞬時も止まらない何かを仮に「自分」と名づけて探求してもいいのではないか。それに「宇宙」と名づければ宇宙物理学などになり、「生命」と名づければ生物学になり、「真理」といえば神学になる、それだけの違いでしかない。

   風海

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執筆よ すゝめ

論文執筆に取り掛かろうとするが、なかなか筆が進まない。何か立派なものを書いてやろうという気が先走るからだ。そんな気負いを和らげてくれる本に出会った。
 香山リカの『文章は写経のように書くのがいい』(ミシマ社)を友人に勧められた。この本は、著者が紹介するように「書く側にとって役に立つ文章術」「書く側の”心に効く”文章術」について書かれたものである。
何がよい文章か、どうすればよい文章が書けるのかといった技術を教えてくれるものではないが、私のような遅筆家には、最初の一歩を踏み出すために役立つ考えが書かれている。

同書のチェックテストで執筆志向が評論家タイプの私にとっては、書く分量or書く時間に規定を設け、一定のペース・時間で書き続けるのがいいようだ。その条件を目指して書いていれば、達成感も味わえてストレスがなくなるだろう。

書く行為自体にセラピー効果があるそうだが、さらに、書く側にとってセラピー効果がある文章は、読者にとっても読みやすいものであるという。

自分のことを振りかえると、頭を抱えて執筆したものは、その時の苦痛が思い出されて読みにくいのかと思っていたが、他の人が読んでも、ちんぷんかんぷんなんだろうな。

とにかく、これから何か書こうとしているけど、なかなか書きだせない人にはお勧めの一冊です。

空味之介

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おいしい?百味供養

昨夜の御逮夜に続き、4日は旧正御影供の当日。
午後1時から壇上伽藍の御影堂で法会が行われた。法印さまが弘法大師の御名代として御衣をまとって御影堂に入り法要が始まる。

昨日、御影堂内で空海のお弟子さんの画像の前に黄色いパプリカのお供え物があったと書いたが、これは「百味供養」といって、お餅のほか、100種類もの野菜を集めてお大師さまに奉納する企画のようだ。(金剛峯寺HPより)

改めてじっくり見ると、大根やにんじんといったお供物の定番野菜のほかに、セロリ、ズッキーニ、ホワイトアスパラガスも見える。なかにはスーパーの野菜売り場では見たことのないような野菜も並んでいる。

奥の院では弘法大師の御廟に現在でも毎日2回、「生身供」と呼ばれるお膳が運ばれる。もちろん精進料理だが、最近ではパスタも召し上がるようなので、こんな変わったお野菜も楽しいでしょうね。

[1:御影堂内、空海の十大弟子図の前に並ぶお供物]

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[2:左上のお膳にはセロリが。右上の野菜は何でしょう?]

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[3:下段左には菜の花、白い酸漿。]

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法要の最後には散華があり、私も一枚いただくことができた。「虚空尽衆生尽涅槃尽我願尽」の言葉が裏面に印刷されている。
高野山のゆるキャラ、こうやくんにも会えたし、弘法大師のパワーがいただけたかな。

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空味

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旧正御影供

旧暦3月21日は弘法大師・空海が永遠の禅定に入った(入定した)日である。今年は5月4日がその日で、旧正御影供(きゅう しょうみえく)と呼ばれる行事がある。

旧暦3月21日の前夜は、御逮夜(おたいや)で、高野山の壇上伽藍では法要が営まれる。この日は一般人が普段は入ることのできない御影堂(みえどう)の内拝ができるので、夕方から内拝の整理券を求めて壇上伽藍に行く。

今年はゴールデンウィークと重なったので、伽藍は結縁灌頂を受ける参拝者や法会の準備をするお坊さんたちで賑わっている。5時前には100人ほどの行列ができていたが、20分並んで整理券をいただく。夜8時過ぎに御影堂に来てくださいとのこと。

御逮夜の法会は夜7時から。御影堂の内拝は8時から始まった。
8時に行くと、すでに整理券を片手にした人々で御影堂付近は埋めつくされている。
大勢の人と一緒に御影堂に入る。
御影堂は弘法大師の真影がお祀りされている高野山でも大切なお堂である。

初めて御影堂に入った。
壁面には弘法大師のお弟子さんたちの肖像が描かれていて、その前にはお供物が赤い御膳に並んでいる。
黄色いパプリカ発見!
お供物も時代とともに変化するんだなあ。

正面に廻って合掌する。ゆっくりお大師さまと対面したいところだが、一礼したら次の人に代わってくださいとのこと。ゆっくり拝むことはできなかったが、ちらっと、内陣の奥に布で覆われたものが拝見できた。

壇上伽藍ではほかの諸堂も特別に開扉されていて、なかの仏さまたちを拝することができる。闇夜のなか、ライトアップされた仏さまたちを巡っていると心が定まってくる。

近年は外国からの参拝者も多い。
大日如来の説明を熱心に、日本の僧に問うている紳士の側で、手を合わせ「ありがとうございます」と一礼して帰路についた。

  空味

ライトアップされた大塔

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