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2010年4月

自分探しの旅―理論編・その一

 裕福な青年たちの一団が、遊女を連れてピクニックへ出かけたときのこと。貧しい遊女の一人が青年たちの金品をかっさらって逃げてしまった。怒った青年たちは血眼で後を追う。せっぱつまった遊女はお釈迦様の瞑想しておられる林の中へ逃げ込み、かくまって下さいと頼みこんだ。お釈迦様は静かに頷かれる。

 青年たちが息せき切って林の中へ駆け込んできたとき、お釈迦様は変わらぬ姿で瞑想しておられた。中の一人が尋ねる。「尊師よ、ここへ女が逃げてきませんでしたか」。お釈迦様は答えた。「君たち、女のゆくへを探すよりも、まず自分を見つけるのが先なのではないか」と。その場で青年たちはお釈迦さまに帰依し、遊女のことは忘れて修行に入った、というお話である。

 それと、今巷間いわゆる「自分探し」とは違うのではないか。ぼくなんかはそう思う。先日、ある先生から、せっかく受かった学校をやめ、全国の教授たちの講義を聞いて回るという一種の行脚をしている青年がいるという話を伺った。こういうのを、世間で「自分探し」というのだろう。

 しかし、ぼくはそれは徒労だと思う。何を得たいのかはっきりしていないし、第一全国の教授たちの話を聞いてもあまり身になるとは思えないから。ぼくは極度のものぐさだから、あまり動きまわるのが好きではない。だから、何かを得たいというとき、一発必中でものにしたい。動き回って疲れるのはご免である。その学生が実り多き人生を過ごすことを祈っているが、ぼく自身は自らの自分探しを考えると、お釈迦様のように静かに座っている方を選びたい。

 この世は主体の認識の総合という仮の世界でしかない。世間虚仮、唯仏是真、である。ただそれを主張するためには、この仮構された「現(幻)実世界」で、何かを成し遂げなくてはならない。それは、引力のように引き寄せられるという、法則の反映でしかないのだが、それをして見せなくては、ぼくのいうことにぼく自身がリアリティーを感じられなくなってしまうだろう。

 何が起こるかはお楽しみに。とはいえ、何も起こらなかった時の保険のため、敢えて書かないわけではありませんので。念のため。

        風海

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自分探しの旅 ―実践編・その一

この4月からヨガを始めた。1つは健康のため、もう1つは〈本当の自分探し〉のためである。
「空味ちゃんはえらいね」「すごいね」と褒められることは嬉しいことである。そしてこれまでも次のステップへの助力となってきた。しかし、自分との対話がないままにその言葉を受け取り続けると自分が揺らいでしまう。
 他者からの評価でしか自己存在を確認できていないと気がついた。論文を書くときもそれを読む先生や学会員の顔が頭にチラつき、なかなか筆が進まない。学会の基準・評価に自分が沿っていないと判断してしまうからだ。
 学会の動向や、どこの研究者がどうした、こうしたという人事めいた話について行くのも苦手だ。たくさんの研究者と知り合いであることが、その人の権威を高めているかのような話を聞くにつれ、私はこの研究界で遅れをとっているんだなと感じてしまう。研究の中身で勝負もしないままで、もう惨敗の気分である。
 それもこれも、他者評価を自分の軸にしていたことが原因ではないかと思う。他には香山リカさんが『くらべない幸せ―「誰か」に振り回されない生き方―』に書いているように、自分を客観視しないままに誰かと”くらべてしまう”のが問題だ。
 そこで、ヨガ。
美容を目的としたヨガも流行しているが、私が求めているのは健康と「悟り」である。長くなるが日本ヨーガ療法学会理事長・木村慧心先生の言葉を参照しよう。
  「体と心をきれいにして、センサーを鋭くしておけば、そういうこと(人間の力の及ばないもの)を感じるようになり、自分のささいな変化に引きずられるなくなります。いろいろなストレスがかかっても動じない人になるため、さまざまな疾患の改善にもなっていく。つまり自己コントロールができるようになるということで、それが実際的な「悟り」です。言い換えればスピリチュアルな健康とは、自分が誰か、どこから来たのか、役割は何なのかなどを理解していること。ヨガをして感性を鋭くしていけば、それらを見つけることができます。」(『Yogini』vol.23)
 自分探しの旅も健康もヨガをすることでたどり着けそうだ。今年度の目標はヨガと博論にしよう。

  ヨギーニ空味子

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名刺を作ろう

 最近、名刺交換をする場面が何度かあった。ところがぼくは名刺を持っていない。以前、「閑人」「日本座禅振興会会長」という名刺を作っていたのだが、前者は配り尽くし、増刷せず。
 後者はある女性が家族に無断で旅行に行き、心配したお父さんが捜索願を出して、彼女の机から発見された名詞が問題視され、うちに警察から電話がかかるという怖い目にあったのでそれ以来使っていない。

 さっき、ダウエ氏とも話していたのだが、我々は「所属」がないのだ。「〇〇大学/高校非常勤講師」というのは、仕事ではあるが正式に言うと所属ではない。入退出カードにもちゃんと「教職員証ではありません」と書かれている。

 そこで、ぼくは宇宙文化研究所の研究員なんだから、その名刺を作ろうと思う。しかし、ただそういう文字を刷り込むのでは面白くないので、何かロゴなんかがあればいいと思う。たいそうなものでなくてもいい。アイディアをお持ちの方はご一報ください。

    宇文研 風海

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博論序曲 外付けハードディスク壊れる!

カツーン。カツーン。
嫌な音がハードディスクから聞こえてきた。
締め切りも近いし、なんとか早くデータを保存して次の用事を済ませなければ・・という焦りの心境で大容量のデータを保存していた時のことである。

〈ホゾンデキマセン〉

というようなメッセージの後、4年間使ってきたHDがとうとう御臨終となった。どのパソコンにつないでもデータにアクセスできない。

中にはバックアップを取っていなかったファイルもけっこうある。
整理下手な性分。
複数のUSBにデータを保存すると、どれが最新版なのか把握できなくなるので、このHDに頼りきっていたところが禍した。こんな状況になって初めて、バックアップをとってなかった自分のいい加減さと機械への過信に気付いて情けなくなる。

yカメラでおねえさんに相談すると、データ復旧の費用は20万円近くかかる場合もあると聞かされ、もうあきらめるしかないのかとスゴスゴ帰る。

ところが、神の手は意外と近くにあった。
パソコン関係のことをいつも教えてもらっているヨシュアさんに相談したところ早速対応してくれた。
ドライバーで手際よくHDを分解し、フリーソフトを使ってデータの状況を確認してくださる。なかのデータは死なずに残っていたようだ。ヨシュア氏に教えてもらった復旧ソフトを8,000円余りで購入し、データを救出することができた。

こんな時に頼りになるのはやっぱり身近な友人である。
盟友のショウ・ホンボウさんもパソコンがウィルスに襲われた時に、このヨシュアさんに助けられた1人だ。
「ユシュアさんに相談してなおったよ」との情報をくれたショウさん、ご自分の仕事もそっちのけで対応してくださったユシュアさん、どうもありがとう。

そして、賢明な皆さんはもちろん普段からデータのバックアップをとっていると思いますが、くれぐれもご注意ください。

何か重要な仕事に取り掛かっている時は、焦りや不安な波動を機械が察知してパソコンが壊れたり、プリンターが動かなくなったりするものです。

空味

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再び桜について

 友人二人と、天神橋から続く川岸の桜並木を見物した。満開の木と葉桜とが入り混じり、青空へ向かってグラデーションが開けている。大勢の花見客がシートを広げ、屋台もちらほら出ているなか、鳩の群れが離合集散し、ぼくたちの歩く背中を、アンデスあたりの民族楽器奏でる「コンドルは飛んで行く」が押してくる。のどかな川辺の光景である。

 そのご、友人たちと別れて夜道を歩いていると、街角の家の庭先に咲く桜が目に入った。美しい満開の夜桜である。もしかしたら葉桜だったかもしれないが、夜目のため、咲き誇る花の姿しか見えない。桜は夜見るのもいいものだなあ、と月並みな感想を漏らしかけて、はたと気がついた。

 桜は夜が好きなのではあるまいか。春の暖かい空気の中、青空に映える満開の木々の印象が強すぎて、桜そのものの性格に対する省察が欠けていたが、桜は実は陰性の木で、夜るとか寒い空気とか、雨などが好きなのではあるまいか。そして、風に花びらを舞わせるのが、心地よいのではあるまいか。そんなことをふと思った。

 桜を植えて見物するようになって、たかだか三百年の伝統しかない。植物のような、ゆったりと時を刻む種族にとって、三百年はまだ「歴史」ではないだろう。桜たちは戸惑っているのではないだろうか。人々がやってきて喜んでくれるのはいいけれど、ぼくたちは冷たい空気と雨が欲しい、風に散る花びらを送りだすのが人生の快事である、というこれまでの習慣との板挟みになって、桜たちは思い悩んでいるのではあるまいか。

 だから、桜の時期にやけに気温が下がったり雨が降ったり風が強くなったりすると同時に、必ず幾日かは、青天の休日に満開の花が見られるような廻りあわせが起こるのである。今年もありがとうと言って、楽しげに散る花を気分よく送り出したい。

        風海

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雅号

 最近、雅号をつける人ってあまりいないようだ。
 夏目金之助が漱石、森林太郎が鴎外、二葉亭長谷川辰之助など明治の文人は大体雅号を用いている。また昔は新聞記者なんかも、雅号を使っていた。「天声人語」で有名な長谷川如是閑などである。

 しかし、最近トンと見ない。ペンネームというのともちょっと違い、雅号というのは書斎や家の名前だったり(○○斎、★★軒とか、××庵とか)、かっこいい字や好きなものや尊敬する人にちなんだ名前(緑雨、荷風、篠蘇など)だったりするのである。

 特に見なくなったのは、何とか斎とか軒とか庵とかといった字である。それでも堂は文房具屋、庵は蕎麦屋などで見かけ、軒はラーメン屋などに多いが、斎を見ることまれである。ぼくはこの斎の字がなんだか好きなのだ。書斎の斎であり、どこか私密的な空間で教養のにおいがするではないか。

 この欄のタイトルは「宇則斎志林」である。下のほうにちっちゃく出るから、あまり気づかれていないようだけれど、宇則斎がぼくの書斎の名であり、志林というのは、まあ「書いたもの」みたいな意味である。

 ぼくはこの他に「諦観堂」「応草堂」「蟋蟀草堂」なども使っている。堂が多いのは偶然である。蟋蟀という字はあまり見かけないが、キリギリスのことである。中国六朝成立(梁の昭明太子撰)の詩文集『文選』には「文選読み」という訓読法がある。「片時」をヘンジカタトキというように、熟語を一度音読みしてから訓じなおすというややこしい読み癖であり、その代表的なものとして「蟋蟀」を「シッシュツのキリギリス」と読む例がある。この雅号はそこから来ている。

 それはともかくとして、このうちで自分が最もよく使うのは「宇則斎」と「諦観堂」だろうか。後者はいいとして、「宇則斎」という字は何かいわくがありそうでいながら、実は何もなく、ただ「うそ臭い」という言葉とのしゃれになっているだけという落ちが自慢なのである。

 無意味な閑文字を連ねてしまったが、このブログ先に書いたように総合タイトルが見えにくいので、宣伝がてら由来を書いてみました。古の文人に倣って、皆様も雅号を考えられてはいかがでしょうか。見慣れた勉強部屋も「今日からここは『○○斎』」と思うだけで、気分が違うかもしれません。

        風海

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自分探しの旅

人とは差し向かいで話すことができても、自分自身とはなかなかそうはいかない。また、人と向き合う以上に、自分と向き合うことは恐いことだ。

日頃はフタをしているドロドロとした思いや、冷たい感情に触れ、今まで見ていた世界を崩壊させる。ちょうど、食べるのを忘れたままにしていたお惣菜を冷蔵庫の片すみに見つけてしまった時のようなオゾマシサがある。
見てはいけないものを見てしまった…。

もっと恐いのは、自分の中身が空っぽだった時かもしれない。
研究畑ではなく、一般社会で生活をしている人と話をしていて気付かされることがある。
「お勉強がお好きなんですね」とか
「研究をしていらっしゃるってすごいですね」とか、もっと直球で、
「それって楽しいんですか」とか言われると、何も答えられない。
私ってなんでこんなことをやってるんだっけ?これまでの私って空っぽだったんだ、と本当の自分探しの旅に出かけることになる。

しかし、そんな旅には〈貴方に最適なのはこっちですよ〉と教えてくれるガイドさんも現れず、現れたとしても、自分は行くつもりのなかった「免税ショップ」に連れて行かれるのがオチである。結局は自分で歩いていくのがいい。

自分探しの旅として、四国八十八ヶ所巡りをする若者の巡礼者がいる。また、俳人の黛まどかさんはサンチャゴ巡礼道を歩むなかで、自分自身と向き合ったという。

自分探しの旅に関しては、私はまだ答えが全然わからない。空っぽなままでもいいのかもしれない。
ただし、座ってあれこれと悩むだけでは解決しそうにないから、とにかく一歩一歩足を前に出すほかないなあというのが、今の解決策である。

 空味

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桜の花と春の長雨

 桜の花が咲きだしたと思ったら、雨が降りはじめた。せっかくの花が雨で台無しになるじゃないか、本当に春の長雨はしつこいからなあ。
 と、以前はそう思っていた。

 ところで、今日ふとひらめいたことがある。この雨って、桜が呼んでいるんじゃないだろうか。花は春の象徴である。桜にとって、開花は一年で最も大きな行事だろう。この美しさを見られたい、という青春のおごりに花は満ちている。
 しかし、である。桜の木にとって、木の芽どき、花の咲くころが一番力のいるときである。そういうときに、天気がよすぎてカラカラでは、これからの一年を過ごしてゆく推進力が生まれない。

 だから、桜は開花と同時に雨を呼ぶのである。花はそれ自体で美しいものである。多少の雨でその美しさが損なわれるものではないし、雨で散るのがはやまって悲しむのは人間ばかりである。他のお得意さん、虫たちや鳥たちは、陽光に照り輝く花も、雨にぬれた花も散る花も、同じように花と見るだけである。だったら何遠慮することがあろうか。

 そうして桜たちは雨を呼ぶのである。また、そのお陰をぼくたちも被っている。今雨が降るから夏の水不足も解消されるのだし、何より植物を育てるエネルギーが、新芽が燃え始める前に、大量に蓄積されるのだから。

 そう考えると、この世はおかげ様に満ちている。春日大社の葉室宮司さんの著書に、ワニなどの動物と共生する鳥のことが出ていて、ワニがいて虫がいて鳥がいるから共存関係が成り立っていると書いてあった。ぼくたちはワニと鳥には目を向けるが、虫にはあまり顧慮しない。でも、ここで重要なのは明らかに虫の存在で、ワニと鳥を結びつける役割を果たしているのである。

 もしかしたら、桜の木が雨を呼んでくれるおかげで、ぼくたちは生かされているのかもしれない。そう思って春の野に出てみよう。晴れていても雨が降っていても、同じようにありがたい気分になれると思う。

         風海

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