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トポス(場)からの離陸 その①

 先日、フランス近世史のアレクサンドル・シマノフ氏、同中世史のモーリス・ダウエ氏および自称ローマ史専攻でおもろいこと探訪家のアキヲ君と、大阪某所にあるワイン屋さん「トルメカ」(仮名)にて会談する。話題は主にサンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼のことなどだったが、帰りにアキヲ君と電車に乗っているとき、彼が語ってくれた博士論文の構想を聞いている内に、ある思考が胎動しはじめるのを覚えた。

 アキヲ君は古代ローマの劇場にこだわり続けている。そして彼は劇場が人々の認識の中で「ローマ的なものの代表」となったのは近代であり、「歴史」というものがいかに「見たいようにしか見ない思考」の産物であるかを主張したい、いうことだった。その言やよし。

 ぼくは彼に個物または特定の場としての劇場が、観念の上で「ローマ的象徴」へと離陸していく瞬間をとらえると面白いんじゃないの、と例によって無責任なアドバイスをしたのだが、自分で言うのもおかしいが、この「トポス(場)からの離陸」って、ちょっと魅力的な表現なんじゃないだろうか。

 思うに歴史はいつも「トポスからの離陸」を目指していたのである。つまり、「その地域土着の物語」であるはずの歴史は、それを利用する者の手によって、常に権力構造の補強材として使われ、事象が事象のまま観念へ統合される、という「歴史」を持っている。その際の、誰もが疑わなくなる「イメージ」への事象の昇華を指して、「トポスからの離陸」というのである。

アキヲ君のフィールドであるローマ史で言うと、ローマ帝国は確かに広大な領域に活動範囲を持っていたが、それは今で言う「領域支配」ではなかった。当時は都市国家の時代であるから、局地的な人口密集地とそれらを結ぶ街道をおさえるのが重要で、面積としてとらえるという見方は稀薄だった。そしてローマ帝国は支配地域の人民にローマ市民権を与えることで発展したわけだが、この「帝国」なるものも、現在の観念からすれば、実体はスカスカなものであったという。

かつてその筋の専門家であるイアン・H・ヒッサン氏のお話を伺う機会があったときに尋ねてみたのだが、ローマ帝国というのはいわばやくざの親分のようなもので、必ずしも精緻な統治機構を有していたわけではなかったのだそうだ(少なくとも資料から実証できる範囲では)。それゆえ、ぼくたちの考える「ローマ帝国」像というのは、これはアキヲ君の指摘通り近代以来のいわゆる「歴史学」の産物なのである。

そんなら、近代歴史学が何用あってそのようなローマ像をつくったのだろうか。ごくおおざっぱに言えば、当時現在進行形で進められていたヨーロッパ列強による帝国主義の精神的より所を創出するためである。ギリシャ・ローマに発想の源泉を持つハイデッガー存在論が、ナチス・ドイツの思想的基盤を担保したのも同じ構造である。そのハイデッガーがイマジネーションの基礎としたのが、歴史学者の創り出した「ギリシャ・ローマ」だったというわけだ。

ものすごく雑駁な話しで、ご専門の方々のおしかりは覚悟の前で言うのだが、そもそも「歴史学」というのは、そういう役割を持った/持たされた学問なんじゃないかとぼくは思っている。日本において『記・紀』が作られた事情も、政府(大和王朝)が中国と付き合う上での「歴史の必要性」に応じたものであった。その本家の中国では、現在の王朝の正統を示すために前代の王朝の歴史が是非とも必要だった。今ある二十四(五)史という正史は、すべて官撰かそれに準ずるものであり、個人が自分の興味を満たすために研究した成果ではなかったのである。

だから、歴史学くらい権力と不可分の学問はない、とさえ言えるではないか。前に、ぼくの友人が博士論文の口頭試問で、某教授から「テーマは学界に属するもので、君個人のものではないのだ」という指摘を受けた話を書いたが、あれはある意味実に正統な、正しい発言であったのだ。(この項続く)

         

風海

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