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トポス(場)からの離陸 その②

 ぼくは日本を代表する人気食育教養マンガ『美味しんぼ』(雁屋哲・原作/花咲アキラ・画 小学館)を愛読し、感心したり首をかしげたりして愉しんでいるのだが、その最新巻は環境問題がテーマであった(104巻「食と環境問題」小学館、2010)。天竜川、長良川のダムや河口堰、築地市場移転、六ヶ所村再処理工場の四つの環境問題に絞って登場人物達がそれぞれを取材し、「究極のメニュー」対「至高のメニュー」で対決をするという内容である。

 対決自体は形骸化して、もはや興味の範疇からは外れてしまった感があるのだが、その結論は興味深かった。環境問題を引き起こす三角形として「政府・ゼネコン・学者」を指摘しているところである。

学者が何で、と思うところだが、これが重要なのだ。政府とゼネコンは官民の利益団体の代表で、学者は彼らの行う事業の正当性を「客観的科学的」に裏付ける存在として利用されているというのである。『美味しんぼ』では河川工学や原子物理学など主に理系の学者ばかりが登場しているが、古来からの伝統を考えると、文系の学問もこのトライアングルの一角に組み込まれていることは確かである。中国においては科挙に合格して官僚となるためには、学者としての蓄積が不可欠だったし、ヨーロッパの神学も、教会による民衆支配の理論的支柱を造りあげて来たという側面が大きい。

以前ある先輩が、仲間内で飲み会をする度に、理科系の学問は役に立つけれど、文系は今ひとつ役に立たないから劣等感を禁じ得ない、という話題で盛り上がる、と語っていたことがある。確かに大型プロジェクトのほとんどは理系であり、文系は次々と予算を減らされているから、そう思っている関係者は以外と多いのではなかろうか。

しかし、一寸まった。「役に立つ/立たない」とは、どういうことなのか。この場合の「役に立つ」とは、くらしを便利にするとか、人生を豊かにする、という意味ではない。即刻「金になる」ということである。つまり先のトライアングルの一角を占めることができて、政府の方針に学問的根拠を付与するための、潤沢な研究資金が与えられるという意味である。その証拠に、すぐに「利用」できない基礎数学などは、科研費も少なく、人気も薄い。そうであるならば、役に立つといっても、決して自慢できる事柄ではないように思う。

基礎数学などに比べたら、歴史学には「これまで国家の役に立ってきたという歴史」がある。つまり金になってきたわけだ。ところが、現在は研究費は削られ、学生には人気がない、という凋落の危機に見舞われている(らしい)。これは大変だ。みんな歴史研究の今日的意義、有用性を示そうとして必死である。

そうは言っても、たくさんの研究費をもらえて、成果を生みだしている歴史学者も多いことだろう。そして彼らは『美味しんぼ』の指摘する環境問題を誘発するような政府との癒着は自分にはないと信じて疑わないだろう。直接的にはその通りである。

しかし、世の中には「タダ(フリー)」は存在しないという原則がある(苫米地英人『フリー経済学入門』フォレスト出版、2010)。ぼくたちが買う商品の価格には、必ずその広告代が上乗せされているように、何かがタダで提供されるとき、必ずそれを回収し利益を上げる仕掛が確立されているのである。

文科省の科学研究費とて、例外ではない。これをもらうためには、国の要求する研究基準を満たさなければならず、それは次第に内容にも及ぶ。個々の研究者単位ではなにも見えないとしても、俯瞰的な位置から眺めてみると、政府の研究費を与えられて行われた研究の蓄積から、もしかしたら取り返しのつかない代償をぼくたちが払わされる仕掛が生み出されているかも知れないのだ。

だから、ぼくは学術振興会の研究費をもらえなかった友人に、おめでとうといったのだ。彼は始め憮然としていたが、自分の好きな研究を心おきなくできるという、何物にも代え難い自由を保証されたと思えば、安いものではないか。

歴史というものの、もう一つの側面には「ものがたり」がある。というよりも、『史記』列伝の躍動的な記述やホメロスの叙事詩を持ち出すまでもなく、歴史の始原(アルケー)は場(トポス)に付随した人間の物語ではなかっただろうか。始原において、歴史はトポスに密着し、人々の物語を紡ぐものであったのだ。

金にならなくなり、その有用性を研究者自身が疑い始めた今、歴史学は本来の面目を取り戻す時期に来ているのではないだろうか。トポスからの離陸を得意満面になって疑いもなく推し進めるのではなく、始原の場所へ回帰してみるのも一興ではないか。「学界」に隷属したテーマではなく、他の誰でもない自分のテーマを研究し、ただ友人の間で愉しむだけ、という形態であってもいいのではないだろうか。何でも金に換算して、工学まで用いてせこく稼ぐことに汲々とする現代世界において、再び自由な知のひらめきのアゴラが重要になってくるに違いないのだから。

        風海  

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コメント

こんにちは、いつも楽しく拝読しております。そしていつも思うのです、「全くその通りだ」と。マァ、いつもどおり「誤読」しておるのですけれど。タハハハ。

いろんな論点が書かれていて、楽しくなってくるのですが、無礼を承知で大雑把にわけてしまうと「歴史とはなにか」という話、「研究とはなにか」という話なのかなと思います。で、この二つについて「全くその通りだ」とぼくは思った、ということ。それをただお伝えしようと思って書き込みをさせていただきました。ぼく個人の結論も全く同じで、「今の研究のセコさったらありゃしないよ!」です。ツマンネェー!と思うわけです。

さらに個人的なメッセージを申しあげますと、「劇場というトポスからの離陸」ってのが最近になって(つい昨日)できたかなぁとも思っております。自称「土着人類学者」ですから(笑)それにつきましては、ぜひ次回の「宇文研例会」もしくはその帰りの電車の中で!

投稿: SIMPEIUS | 2010年3月22日 (月) 11時27分

SIMPEIUSさん、はじめまして。ブログ管理人片割れの空味です。
コメントありがとうございました。風海さんへのコメントですが、抜け駆けしちゃいます。
「劇場というトポスからの離陸」のお話は帰りの電車の中だけじゃなくって私も拝聴したいです。ぜひ何かの機会にご発表くださいね。

投稿: 空味 | 2010年3月22日 (月) 23時12分

空味さんこんにちは。いつも空味さんの文章には「ほんわか」させて頂いておりましたので、ご挨拶ができてうれしく思います。

私の考えはいつもどおりまとまっていないのですが、一緒にお話できる機会を楽しみにしています。ぼくの興味のあるいろんなテーマが、「テイクオフ(離陸)」という言葉でつながってきそうです。ではでは☆

投稿: SIMPEIUS | 2010年3月23日 (火) 15時27分

SIMPEIUSさん、コメントをありがとうございます。「劇場というトポスからの離陸」について、空味さんが言うように、どこか公的な場(電車のなかとかでなく、という意味)でお話しください。
では、また「例会」でお会いしましょう。

投稿: 風海 | 2010年3月24日 (水) 18時08分

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