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信仰心を考える-現世利益か後生大事か-

  信心深いとはどういうことだろう。信仰心とは一体何なのか。改めて考えてみると、一般に言われている信心というものが、どうもあやふやな気がしてならない。信心深いと言われる人が何をしているかというと、お寺や神社や教会に詣で、神仏に手を合わせる、又自宅に祭壇を作ってお灯明を上げて朝夕祈っている、といった感じだろう。そこにあると確実に言えるのは、神仏に対する尊敬の念だろう。
  では、「信」はどこへいったのか。そもそも、信仰における「信」とは何なのだろう。そこにあるのが尊敬だけならば、「神仏は尊し、神仏を頼まず」といった神無用論者宮本武蔵の態度が一番偉いことになる。
  はたまた、神社などで絵馬を書き賽銭を投じて「所願成就」と祈っている人はどうなのだろう。何か頼み事をしている姿に、我々は「欲深さ」を感じても、あまり「信心深さ」は感じない。ひろさちやさんは「神様仏様に頼み事をしてはいけない」という。なぜなら、神仏を自動販売機のように「利用」することになってしまうからだ。してみると「現世利益」は一段低いものということになるだろう。そしてそれをうたっている神社仏閣も。
  しかし現世利益って、本当にそんな下品なものなのだろうか。「お金がほしい」「試験に受かりたい」という希望と、「悟りを開きたい」という願望との間には、どのような差があるというのだろうか。

<渦巻き型銀河>               

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「現世利益」といったとき、「お金がほしい」というのと「悟りを開きたい」というのは、実はそれほど違いがないのではないか、とぼくは思うのである。なぜなら「悟り」が現世で達成されるなら、悟った本人が一番嬉しいに違いないのだから、それは立派な現世利益ではないか。
  また、「利益」は、それが果たされる限り、どこまでいっても「現世利益」でしかない。つまり、この世では迷っていても、あの世に行って「悟り」を開いたとすれば、本人にとっては行った先が「現世」なのだから、やはりどこまで行っても「現世利益」なのである。
  それなら、今生きているこの世でいい目を見たい(お金がほしい、試験に受かりたい、世界平和に貢献したい、悟りを開きたい)といった願望を抱くのは悪いことではあるまい。
  では、問題の「信仰心」との兼ね合いをどうすればいいのか。こう考えてはどうだろう。自分の願いは己一身の欲望に止まるものではなく、必ずや神仏の御陰をもって広い世界へと開いてもらえる、と信じ安心していられること、それこそが「信仰心」というものではないだろうか。
  世の中を少しでもよくするために、自分は神仏に使われているのであり、自分の願うことはすべて神仏の心から発していると信じることができれば、思うことすべて可ならざるはなく、日々心穏やかに生きていけるはずである。
  すべては、そこの所を本当にリアリティーをもって「信じ」きれるかどうか、という点にかかっていると思う。様々な祈りや、瞑想などは、その確乎たるリアリティーを形成するためのものなのである。

      風海

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