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髙橋隆博論

 ダダイストの作家辻潤が「俺は天狗になったぞ」と言って家の二階から飛び降りたのは、昭和七年のことである。辻は程なく青山病院に入院し、ある程度回復したが元には戻らなかった。
  最近、髙橋隆博が天狗になったという噂を耳にした。自分がいかに偉いかを周囲に向かって吹聴し、同意を強要するというのである。迷惑な話だ。K大学文学部教授、同大学博物館長、なにわ大阪文化遺産学研究センター長(肩書きはすべて2010年2月現在)と、これだけの座布団を重ねておきながら、なお自ら直截に誇るとは、どういう了見だろう。

  どうにも理解に苦しむと思っていたが、ははあ、そういうことかと気がついた。誰も喧嘩を売ってくれなくなったので、先生寂しいのである。学問が積み上がり、地位が向上すればするほど、誰も本音で褒めたり貶したりしてくれなくなる。毀誉褒貶は表裏のもので、どちらかに偏っても不安になる。そこで誰かが喧嘩を売ってくれて、丁々発止めでたく相手をねじ伏せれば、やっぱり自分は凄いのだと我人共に示すことができるのに、偉い先生にはそういうチャンスは滅多無い。あれだけ座布団を重ねておいて、さあ対等にかかって来いと言っても、それはできない相談だろう。と、周りは思うが髙橋は思わない。
  若いのである。いつまでも挑戦者で居たいのである。誰もが追従笑いを浮かべて取り巻くだけなのが居心地悪いのである。誰がこちらに気を遣って、早めに投了してくれる相手とばかり将棋を指したいものか。世の趨勢といえば諦めもつくが、きょうびの学生は真に先生を「利用」する術を知らない。ただ学問的な知識や史料の読み方を教わるだけで、先生を先生たらしめている所以のものに肉薄しようとしない。先生の胸を借りて、徳俵いっぱいまで押し込み、最後に力尽きて土俵に転がされる快感を知らない。この状況を私は髙橋のために残念に思うのである。

  髙橋は民俗学美術史学における当代の碩学である。また独自の風格を持つ文章の書き手である。政治的人間関係において抜群の手腕を発揮する謀略家でもある。しかしこれらは先の座布団同様、その皮相を表すにすぎない。末梢であって根幹でないこと言を待たない。 髙橋は知の冒険家である。その年代をとうに過ぎた今でも、青年である。対象が美術であれ文学であれ生きた人間であれ、それに関わることによる心の震え、魂の躍動を求めてやまないのである。ただし、その性向の本質は洗練された精緻な思考とは裏腹に、驚くほど直線的で拙いのである。 
  政治の腐敗に本気で怒り、品性の欠如した行為にしばしば罵言を浴びせる。黙っていればいいのに、それができないのである。年を取っても、否、実年齢が上がれば上がるほど、行動力は増し、東西を縦横に駆けめぐる。珍しいもの、美しいものに出会う悦びを抑えきれず、旅につぐ旅を強行する。そして何であれ自らの目で見なければ気が済まない。数年前には、奈良の山間で危うく遭難しかけた。山路に立つ石仏を見て歩くうちに足を滑らせて溪川へ転落したのである。足を折って死に瀕したが生還し、後で面白そうにこの脱出劇を語ってくれた。

  こういう人だから、周りが自分に喧嘩を仕掛けないことが不満なのである。弟子であれ同僚であれ、噛みついてきたら倍にして返してやろうと手ぐすね引いて待っているのに、誰も噛みつかない。それが面白くないのである。しかし、今どき誰が三つ殴る間に十も二十も殴り返されるような者を相手に喧嘩などしようと思うだろうか。それをするのは馬鹿か余程喧嘩が好きな人間だけである。お前はどうなのか。確かに私は今このような文を草して髙橋に喧嘩を売っている。髙橋にしてみれば私ごときでは相手にとって不足だろう。私だって伸されるのはごめんである。しかし誰もいないのなら出て行かざるを得ないのである。
  以前髙橋は「自分には外に二人の弟子が居る」と言った。「一人はS(中国近世史専攻)であり、もう一人がお前(風海)だ」と。だから私は師の学統を重んじ、追従やお座なりを言う代わりに一戦を挑むのである。負けると分かっていて喧嘩をするのである。申し訳ないが何十年大学教授をやっていると、大概闘志は失せてくる。堂々たる組打ちの代わりに陰湿な意地悪をするようになる。少なくとも表だった喧嘩はしなくなる。そんな中、まだ師弟で取っ組み合いができるなんて、こんな嬉しいことはないではないか。故に私は喜々として師の痛棒を待つ者である。
  
  髙橋よ、「天狗」にはなるな。イエスマン相手の自慢話などやめるがいい。学問への情熱の他に、一体何が大切だというのか。真への希求、善との格闘、美への憧憬を流動する知性の拳として、拙い戦いを戦い続けるより他、何ができるというのか。

    碩学もなほ青年の拙さよ
       我が師なりけり我が師なりけり
                                                                                        
          風海しるす

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