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文化遺産学とは何か

最近イングランドK大学モーグリー校の教授で、日本文化に詳しいジョン・ケアレ=スミス氏の講演を聴く機会がありました。その内容の大半は概説的であり、特に目新しい発見はありませんでしたが、「文化遺産学」というものについてのケ氏の見解はまさに一掬すべき所ありと思われたので、以下に紹介してみます。

ケ氏は先ず、日本における文化遺産学の創始者(ファウンダー)として、高橋隆博氏(なにわ大阪文化遺産学研究センター長、20101月現在)の、

「文化遺産学とは、文化遺産とは何かについて考え続ける学問である」

という言葉を引用します。この一見トートロジーみたいな発言の裏には、一体いかなる意味が込められているのか。ケ氏はこう言うんですね。「~とは何かを考える」とは、それが何であるのか、まだ誰にも分かっていない原初の状態にあるということである。そして高橋氏の意図は、考えるという営みを通じて、新たなものを創り出していくことにあるのだ、と。

現在既存の学問としてあるものは、資料群、方法、立論形式など、ほぼ定式化されているといっていいじゃないですか。安定した成果を継続して生み出すには都合がいいかも知れないけど、これって果たして真に新しい発見を促すことができますか。

文化遺産とは、ある決まった価値の体系ではない。それは新しい視点と方法とによって、常に創造し続けられなくてはならないもの。だからこそ、「何が文化遺産か」ではなく、「文化遺産とは何か」という文法で問われねばならないのです。前者の問いでは、答えはすでに決まっていて、学者の仕事はそれを見つけることに絞られてしまう。しかし、「何が」ではなく、「とは何か」と問うことで、従来全く無視されてきたものに、新しい光を投げかけることが可能となるんですね。これは世界に対する積極的なアクションなのです。誰もがその価値を認めるものだけが学術的で、市井の雰囲気や人と人との関わり、また一見学術的と見えない文物が、どうして閑却されなくてはならないんですか。普通の人が見逃しているところに目を向け、そこに価値を見出す行為こそ、真に学術的な営みなのではないですか。

 これに加えて、「考える」ことそれ自体に注目したのが、ケ氏の主張のもう一つの特徴です。ケ氏は英国人的皮肉を交えて、ものを考えることを職業にしているはずの研究者の多くが、本当にはものを考えていないのではないか、と吼えます。既存の資料を使い(新発見であっても、それが従来の「資料」という枠組みにはいるならば、それは既存のものの新種に過ぎない)、慣れ親しんだ方法で論じ、定式化されたプレゼンテーションを行っていて、どこに「考える」余地があるのか。考えるとは、ともすれば自らの地盤をも揺るがそうとする知の暴走であるべきだ。それができて、はじめて新たな創造と発見がもたらされる。

こうしてみると文化遺産学は、文物の発見、資料の「創造」、思考の改革を通じて、人を教育していこうとする学問であるように思われます。継承者無くして文化は伝達されない。遺跡や書物、絵画彫刻建築など、文化財としていくら立派なものがあろうと、それを継承してゆく人がいなくては、そのモノ自体に何の価値があろうか。文化遺産学とは、先人の残した偉大な文化に敬意を払い、正しく継承し、しかしそこに止まることなく、新たなモノを創造してゆく人間の育成を行う学問である。だからこそ、高橋氏は「~とは何かを考える」ではなく「~とは何かを考え続ける」と言ったんじゃないですか。それがケ氏の結論でもある。しかし、こうしてまとめてみると、残念、ケ氏の議論はごく当たり前のことをいったまでで、さほど目新しいことではないようにも思われますね。

             風海之介 識     

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