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文化交渉学とは何か(講演ふうに)

はじめに

 どうも、風海衛門でございます。
 文化交渉学ということを軸に、歴史(学)のお話をせよという要請でしたので、少しばかりお話させていただきます(そんな要請はなかったが)。ここで、当たり前のように「文化交渉学」という語句を使っておりますけれど、よくよく考えてみますと、その実態は字句の明瞭さほどに明らかなものではありません。何がどうなったら、文化交渉であり、それをどのように観察すれば、文化交渉学となるのか。どうもその辺りのところが曖昧であるような気がします。アジア文化交流研究センター長(2010年現在)の松浦章氏の近著には次のような記述があります。

 「近世日本と中国との文化交流を見るとき、最も典型的なものは江戸初期より幕末までほとんど欠けることなく恒常的に続けられてきた長崎における中国貿易である」(『江戸時代唐船による日中文化交流』思文閣出版、2007年、440頁)

 ここに顕著なのは、文化の交渉というものを、二つ以上の文化圏の直接的な出会いの場に限定して分析しようとする態度ではないでしょうか。こうした問題設定のあり方が、いい悪いということではありません。従来の方法論によって研究している限り、どうしてもそうならざるをえないということもありますし、またそれが学会の潮流として広く受け入れられているという事情もございます。ともかく、文化の交渉、交流というからにはそういう研究を行うのが当然ではないかというのが、普通の理解でしょう。
 しかし、果たしてそうした一面的な理解だけでいいのでしょうか。古代から近世にいたるまで日本と中国の間には国力は勿論、文化的にも大きな差があり、中国からは色々なものがもたらされますが、日本からは中国人の生活を変えるほどに大きな文物を輸出したということがほとんどありません。こうした不均衡の中にあって、本当の意味での「交流」が果たされたといえるでしょうか。

 では、どのようなものとして文化交渉を考えればよいか。これはひとつの代案に過ぎませんが、私はそうした一面的な文物の流入しかなく、相互交渉の分析が出来ない場合、受け手におけるレセプター(受容体)がどのように成立していったかということを中心に考えていけばいいのではないかと思います。これは日中貿易だけではなく、例えばインド仏教の中国伝播を考える際にも適応できます。ご存知のように仏教はほぼ一方的にインドから中国へ入ってきたので、中国からインドへの流れは皆無に近い状態です。
 にもかかわらず、中国では老子が釈迦に教えて悟りを開かせたとする「老子化胡」の伝説がございます。こうした伝説が何故どのように作られていったのか、詳しいことはさておき、その事実は中国国内に仏教を理解し、少なくとも老子や荘子といった思想家に近い言説であるという理解が成立していたということを教えているわけです。これを観察することによって、中国国内に仏教への受容体がいかに形成されていったかが分かります。つまり、中国国内でではあれ、インドの文化と中国の文化が相互に交渉しあい、そのアウフヘーベンを通じて中国文化に単体ではありえない厚みをもたらしたことが看取されるのです。

 また、中国の西の辺境、居延というところから漢代の木簡が多数発掘され、そこに書かれている辺境防備の役職を研究すると、どうやら中央で把握されていた体制と違うルールが適応されていたということが分かってきました。これを漢代官僚制の側から見れば、制度の欠陥という結論になるかもしれませんが、辺境地帯の実際、つまり匈奴などの異民族との戦闘が日常的に行われていた場所における応急処置的な制度の改変という視点で見れば、異民族への対応による制度(文化)の変化ということが見えてくると思います。これは春秋時代に趙の武霊王が、従来の馬に引かせる戦車から、「胡服騎射」といって、ズボンをはいて馬に乗って弓を射るという戦闘スタイルに変えた事などと同じく、異民族の文化と中国の文化が止揚された果ての変化であることが分かります。

 もうひとつ、日本の茶の湯について。これは中国からもたらされたお茶と茶器(一部は朝鮮半島から)を日本で独自の使用法として一つの世界的な文化にまで高めた好例です。その背景には、宋代の文化というものが伏在しています。中でも禅宗とのかかわりはつとに指摘されるところですが、そもそも、その禅宗が宋代の文化に根づいたのは、中世から近世にかけて、戦闘のスタイルが変化したこともその一因ではないかと思われます。例えば三国時代の戦闘は、集団同士のぶつかり合いで、『三国志演義』に描かれるような華々しい英雄同士の一騎打ちは存在しませんでした。
 各軍団の大将はそれぞれ大土地を所有する豪族であり、本人が討ち死にすると全ての根底が覆るため、どんな武術の達人でも、戦闘時には軍陣の奥深くに身を潜めていたというのが実情でした。一騎打ちが行なわれるようになったのは、宋代に入ってからで、近世では一軍の統率者が中小の地主へと変化し、戦場における華々しい軍功によらなくては、出世することができないという社会構造が確立したからです。そこでは、『水滸伝』の好漢たちのように、大立ち回りを演ずるという、やや芝居がかったパフォーマンスが現れたのです(逆に、『三国志』の英雄の描き方には、宋代のこのような背景の影響が見られます)。

 この一騎打ちというスタイルは、そのまま仏教に変換すると、禅宗における僧侶同士の問答となります。これが徐々に日本へ輸入され、一つの茶の湯という形に統合された時、禅的なものでも、戦闘的なものでもない、日本独自の「気」による一騎打ちの場として完成されたわけです。ですから、初期の茶の湯は戦国大名に好まれたところからも分かるように、ただの呑気なお茶会ではなく、気を練る場、精神的な武術の鍛練の場としての性格が強かったであろうと思います(余談になりますが、豊臣秀吉が千利休を殺したのは、茶の湯における気の戦いにおいて、連戦連敗し、プライドを傷つけられたためであると私は思います)。

 このように、文化交渉というものは、実際に二つ以上の文化が出会う場そのものの分析ではなく、片方の文化における受容体の成立という面に焦点を当てることにより、その文化の発展への理解が深まるという形で考察されるのが、自然なのではないかと思います。

★道教文化の日本流入★

 話が大分文化交渉とは違うところへ来てしまいましたので、もとへもどり、日本文化と中国文化の接点として、道教文化の流入についてお話したいと思います。日本の文化が実は道教の文化を基底に形作られているといえば、驚かれる方も多いのではないでしょうか。しかし、これは故なき事ではなく、中国を北と南に分けたとき、日本に入ってきたのが南の文化だと言い換えてもいいからです。周知のように、上代の日本では遣隋使、遣唐使によって中国文化を輸入し、律令体制その他の制度を整備したわけですが、中央によって採用された制度以外の民衆レベルにまで拡張できる文化という面で見ますと、北のものよりも南のもののほうをより多く取り入れているわけです。なぜかと申しますと、遣唐使船はまず南の寧波に入港するのですが、そこから長安までいけるのは遣唐大使副使以下十数名に過ぎず、残りの乗員はみな港の側で足止めされるからです。
 その状態が数ヶ月も続くわけですから、後に残った人々が何もせずに大人しく宿舎にいるわけがありません。それぞれ興味の赴く範囲で書物やその他の文物を購入したり、様々な風習に接したりといったことを行い、それを日本へ持ち帰るのです。そういうわけで、遣唐使が正式に将来した制度や文物の数以上に、中国南方の文化が日本へ流入してきているわけです。その代表的なものが、道教に代表される呪術的な文化風習です。

 道教の研究者である福永光司氏は、中国の文化を大きく北と南に分け、北を馬の文化、南を船の文化と呼んでいます(福永光司『タオイズムの風―アジアの精神風土』人文書院、1997、『道教と日本文化』人文書院、1982年)。淮河から秦嶺山脈を境に気候が変化いたしまして、北は寒冷で乾燥しており、作物はアワ、ヒエ、キビ、大麦、小麦といったものになります。南は温暖かつ湿潤で米がとれます。北は草原砂漠地帯で、馬などの牧畜をして暮らし、肉とパンの食事が中心であり、南は漁労文化が発達して米と魚が主食です。また、北と南の違いを図式的に申し上げますと、北は儒教文化、南は道教文化、北は太陽を男性とし、南は女性とみる。北は右を尊び(右襟)、南は左を上とする(左襟、『論語』では野蛮とする)。北は偶数を好み、南は奇数を好みます(『老子』に「道は一を生じ、…三は万物を生ず」)。北は男性的な剛の文化、南は女性原理による水、柔の文化です。この両文化が混ざったのが、紀元前三世紀、楚(舟の文化)出身の劉邦が、北の中原で漢帝国を建てたことに始まります。
 武帝の時、馬の文化一色の様相となりますが、それは支配階層だけのことで、民衆レベルでは舟の文化は脈々と受けつがれていきます。道教はもともと紀元前六世紀頃のある一派の言行を、紀元前三世紀頃に記録した『老子』『荘子』を中心とする黄老道と、民間の呪術宗教が融合したもので、道教教団の成立は六世紀頃のことで、四世紀頃に江南で起こった変革を、六世紀に入って陶弘景がまとめあげ、上清派道教、茅山道教、また茅山が南京の東南約八〇キロの所にあるので、江南道教とも呼ばれました。シャーマニズムと『易』『老子』などの哲学を導入した神仙道が融合し、初期中国仏教の教説をも取り込んで、土着宗教化したものを集大成したのです。

 道教による日本文化への影響は、上澄みだけのものではなく、深く基盤にまで及んでいるわけですが、仏教界および神道界のネガティブキャンペーンによって道教の影響は「なかった」あるいは希薄なものとされてきました。学会においてもその傾向が強く、日本古代史はこれまで道教の神学、文化と日本文化の関連というものをまともに取り上げることをしてきませんでした。道教そのもの、道観や道士など具体的なものの将来は正式にはありませんでしたが、日本文化の形成発展にかなりの影響を与えたことは確かです。

 では、この道教文化は、どのように日本の文化の中へ入っているのか。たとえば天照大神という神様がいますが、このひとは女性ということになっている。太陽を女性とするのは舟の文化の特徴であり、馬の文化の星神(北極星)である「天皇大帝(すめらみこと)」が結びついて天皇家の先祖となったというわけで、福永さんはこうしたことを可能にした日本文化は、「外国の文化、文明のよいところを採り入れ、悪いところを捨て、新しい文化を作る能力に優れています」と述べています。ちなみに「天皇」という名称の初出は推古天皇の丁卯の年(607)に造られた法隆寺金堂の薬師像に刻まれた「池辺大宮治天下天皇」という銘文です。この「天皇」というのは道教では天皇大帝(太一神、玉皇大帝)であり、そのシンボルは剣と鏡です。これに四世紀の中頃、儒教のシンボルであった玉が最上位のものとして付加され、仏教の三尊像に倣ってできた道教三尊に配当されました。玉が元始天尊、鏡が太上道君、剣が太上老君のそれぞれシンボルとなります。この三種の神器が日本に導入されるのは、『日本書紀』(神代下)に、天照大神が葦原中国に降臨する瓊々杵尊に三種類の宝物として「八尺瓊の勾玉と八咫の鏡と草薙の剣を賜う」とあるのが最初ですが、天皇の象徴となるのは平安時代中期頃のことになります。

 それはちょうど藤原摂関家の時代ごろに当たるわけですが、そのときかかれた長編小説に有名な『源氏物語』があります。この小説は国風文化の元で書かれ、外来的な要素がないかのような印象ですが、実は道教の影響がかなり色濃く現れた文学でもあるのです。まず、冒頭の巻きを「桐壺」といいますが、これは完全に道教由来と分かります。道教では仙人の住むところを「蓬壺」といい、これになぞらえて宮廷の女官の部屋を「桐壺」「梅壺」「藤壺」「梨壺」などと植物の名で呼ぶ慣わしになっておりました。さらにこの巻きの下敷きは唐の白楽天の「長恨歌」ですが、この物語的な詩のストーリーは、亡くなった楊貴妃の魂を「臨邛の道士」(四川出身の道士)が魂呼びをして、玄宗皇帝と再会させるというものです。また著者の名を「紫式部」といい、光源氏の正妻の名を「紫の上」といいます。この紫という色は当時十一世紀の社会では天皇家に結びつく色だという通念があったわけです。中国では紀元前3~2世紀頃北極星(北辰の星)が神格化され「太一神」となります。この太一神の宮殿を「紫宮」といい、紀元前後になって太一神が天皇大帝と同一視され、その神殿が紫宸殿、紫微宮などと呼ばれます。北魏の時代になって、この天上の存在が地に投影されて皇帝の宮殿をも紫宮、紫微宮といいはじめ(『魏書』文帝紀)、日本へは北魏から天武天皇の時代に導入されます。それとは別に、漢の武帝が官僚制を整備した際、衣冠束帯の色を定め、紫を最上位としたことを受け、これが聖徳太子の冠位十二階の制度へと繋がっていきます。

 聖徳太子による冠位十二階の制定は、推古天皇の十一年(603)十二月であり、『日本書紀』推古天皇の同年の条に「十二月戊辰朔、壬申に始めて冠位を行う。大徳、小徳。大仁、小仁。大礼、小礼。大信、小信。大儀、小義。大智、小智。併せて十二階なり」とあり、また「並びに当色の絁を以て之を縫う」として、徳を紫、仁を青、礼を赤、信を黄、義を白、智を黒に配当しています(河村秀根『書紀集解』)。このうち、徳以外は儒教で言う「五常」であり、これを五行に配当しています。徳をこれらの最上位に置く思想は、五世紀、六朝時代に出来た『太霄琅書』によっています。また、「紫天」「紫清」「紫字上清」などといい、紫色を神仙の象徴とする考え方も同書によります。聖徳太子という人物が実在したかどうかはともかくとして、このとき冠位十二階や十七条憲法などをつくった人或いはグループは、かなりこうした道教文献に通じていたといえるでしょう。聖徳太子については、『日本書紀』推古二十一年(613)十二月条に、聖徳太子が道教の真人(不老不死の道術の実践家)と凡人を区別する能力があったと言う記述があります(道端で飢えていた旅人が、屍解していた、という話)。平安中期の大江匡房(1041~1111)による『本朝神仙伝』では、上宮太子は道教の真人そのものであり、「甲斐の黒駒に乗り、白日に昇天した」と記されています。この人はかなり陰陽道とか道教に詳しかった人で、『江家次第』などにもそういった関連のことがかなり書き込まれております。

 道教を中心とする呪術や天文などの技術が日本文化の中で根づき、発展した一つの完成形が「陰陽道」でしょう。道長の時代の安倍晴明の活躍が有名ですが、国風文化の中で道教は日本化されてその命脈を保ったわけです。安倍晴明の活躍を描いた岡野玲子さんの漫画『陰陽師』(白泉社)は、その思想背景をよく消化し、この技術=アートの本質に迫っています。晴明は律令体制の崩壊を告げる内裏の炎上の後、日照りが続く京の都に雨をもたらすべく呪法を行い、その一連の活動の最後のクライマックスとして、天地を一体化させる「三皇五帝祭」を執り行います。この部分は史実ではなく岡野さんの創作ですが、ここで再び本家の道教のほうへと陰陽道を近づけたのは、慧眼であったと私は思います。三皇五帝は三皇(フクギ、ジンノウ、ジョカ)と五帝(五つの方角)の融合で、岡野さんの説では上下縦軸と平面横軸の一体化を意味します。中国の「皇帝」という名の由来も、案外この辺にあるのではないかと思うのですが、これはまた別のはなしになります。
 陰陽道はその後平安貴族の権力闘争に利用され、そういった形で展開して行きます(村山修一『日本陰陽道史話』平凡社ライブラリー、2001年)。関白道長への呪詛を見破った安倍晴明の話などもそうですが、源平合戦の前哨戦ともう言うべき保元、平治の乱(1156、1159)において、その勝敗の分かれ目が両軍の指揮をとった藤原通憲、頼長という二人の陰陽道を信奉する貴族の判断の違いに依った、という話が『保元、平治物語』に伝えられています。この頃もその後も、戦争を行う際に陰陽道由来の易や占筮が使われていたようです。
 
 日本では制度的な面ではそれとなく、また呪術的な面では陰陽道という形で、道教を受容しております。道教が、禁忌、呪詛、卜占、天文、暦数といった実際的な面において、「日本文化」として定着していることが分かります。本家の道教そのものとの比較において、日中文化交渉の実際面が明らかになるのではないでしょうか。今回はそうした考察の結論ではなく、問題提起として様々な例と、考え方の道筋だけを申しあげました。これをきっかけにして、文化交渉という視点から、日本なり中国なり、或いはその他の文化圏なりをご覧になってはいかがでしょうか。その際に、ただ異文化どうしの接触点を探るだけでなく、純粋にその国の文化だと思われるところに、案外文化交渉からのインパクトが潜んでいるのではないか、つまり、そこにこそ文化交渉の痕跡があるのではないかという見方をしていただければ、ずいぶん視野が広がるのではないかと思います。
 今日は、文化交渉学とは何かというテーマを肴に、雑駁な事柄を取り扱いましたので、ちょっと混乱されたのではないかと思います。ご質問がありましたら遠慮なくおっしゃってください。私のお話はこれで終わります。

         風海衛門

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