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エロい化

 もう数年前のことですが(二〇〇六年九月三十日)、友人と西宮にバイオリンのコンサートを聴きに行き、大変愉しいひとときを過ごしました。その演奏者が美人だったのが良かったみたいです。ニコラ・ベネデッティという、イタリア人のような名のスコットランド人で、まだ二十歳前なのに、殆ど円熟と言ってよいくらいの技巧的冴えを示し、陶酔の郷にいざなってくれました。

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 小さなホールの舞台に明かりがともされ、彼女は出てくると伴奏のピアニスト(アリスン・リンド、この人も美人だった)としばし音を合わせ、やおら向き直ると肩とあごで楽器を挟み、両手で弓をもって剣でも構えるような姿勢を取ったかと思うと、突然はじかれたように弾き始めました。その、ブラームスのF・A・Eコンチェルトの、第一音が鳴らされたとき、あたかも彼女の手に素肌を触れられたかのような感覚が走り抜け、そのまま天上へ引き上げられたのでした。

 その数日後(二〇〇六年十月八日)僕は、梅田スカイビルでやっていたWBSワールドビアサミットへひょんなことから潜り込み、友人が下戸だったためビールを飲まず!舞台上で演奏されている音楽などを聴いていました。
そのなかで、チームアンダルシアという、フラメンコのダンサーがおり、これが素晴らしく、大いに感銘を受けました。
何がいいと言って、エロいところがいい。そういうと、なにか公序良俗に反する意見のように聞こえますが、さにあらず。芸術=創造力=生命の燃焼とすれば、当たり前のことなので、神聖な清らかさと、エロさとは矛盾しません。
 その日の午後にあった御堂筋パレードで、そごうの一階でフルートとピアノの演奏を聴きましたが、そんなに悪くなく、演奏者のお姉さんも綺麗だったのに、何か感動が薄いわけです。なぜだろうと思うと、それは彼女がエロくなかったからで、そういったエネルギーを押さえ込んでいては、芸術は全うしないものだと言うことが分かります。

 そういうことを、フラメンコ見ながら考えていたわけで、まあ、実際フラメンコは踊りの中でも特にエロいわけですが、しかし、そうでない人がやったら、多分エロさよりも運動性の激しさの方が前面に出てしまい、何の感興にも通じないものになるでしょう。
「エロい」。何といい言葉でしょうか。発音し、舌の上で転がしてみてください。これまでにも芸術はエロいと多くの人が言っておりますが、やはり実物を見て実感すると、雷鳴に打たれたような感動があるものです。生命の根源にある、この力こそミューズたちの加護といえるでしょう。(淫猥になるか、美になるかは、その人の力次第)

 ニコラ・ベネデッティの演奏を聴いて間もないあの夜、見たフラメンコの感動からまだ醒めず、そのとき共時的に頭の中にひらめいた「エロ」というテーマが、今私の中で徐々に深まりを見せています。齋藤孝流に言えばこれを「技化」するのが、当面の課題です。ただ、技化というと真似になるので、最近流行の言い回しを使って(これも広義の真似ですが、少し違うところもあると思うので)人格や、行動や作品やの「エロい化」と名付けようと思います。(その元ネタの「見える化」ということばを新聞の誰かのエッセイで見たときの、違和感たるや、ちょっと忘れがたい)

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「エロい化」とは、「英雄(エロイカ)」にもかかっていますが、出典は『荘子』で、巻五の徳充符篇に載っている「哀駘它」というおっさんのお話がヒントになります。哀駘它は特に何ということもないどころか、ちょっと人が驚くようなブ男で、別段特技も優れたところもないのに、男からはその人格を慕われ、女たちは他の男の妻になるよりもこの人物の妾になりたいと親に頼み込むという有様でした。
 何もないようなのに、厳然と徳がある、いや溢れているという、この哀駘它を、荘子は道を得た人物であるととらえているわけです。
 このことを私なりに表現しますと、「創造力」(活力=エロス)が体中に満ちていると言うことで、ジョルジュ・バタイユの言う「エロティシズムとは絶えざる生命の燃焼」というところと一致するわけです。

 そういう人物を目指して人格を陶冶?してゆくことを、「エロい化」と呼びたいわけで、それは自己の領域の拡張にも繋がることだとおもいます。そして、エロには欠かせないのが「触る」という行為ですが、ただの痴漢になってはいけません。
 痴漢やセクハラについてはいろいろと言いたいこともあるのですが、今取り合えず簡単にいえば、セクハラ痴漢とは、エネルギーの低下したおっさん(脂ぎっていることと、エネルギーレベルの状態とは一致しない)が、わらにもすがるような按配で若い女の体や、精神(心と体はその密度が違うだけでその実同じモノの表裏なのです)に身体や視線や言葉で触れることにより、一時的に回復しようとするせこい行為で、これをやられると名状しがたい嫌悪感に襲われます。
 「減るもんじゃないだろ」というけれど、確実に「盗って」いるんだから、「減る」わけです。ストレスフルな都会の中で、たださえ低下しがちなエネルギーを、おっさん如きに盗まれる無念はいかばかりか…

 これでは、いかんと思うので、この「エロい化」を目指す者は、与える者でなくてはなりません。触ることによって、相手の女にエネルギーを分け与える、という按配に。だから、逆説的に言えば、完全に充足しきったときでなくては、相手を求めてはいけないという、非常に困難な修行が必要になってきそうですが、まあ、そのあとはこれからの課題と言うことで。

                                    風海

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宇則齋志林」カテゴリの記事

コメント

こんにちは。
先日、マルタ・アルゲリッチの弾く、ショパンのポロネーズ第6番(作品53)「英雄(エロイック)」(1967年録音)を聴いたのですが、これが予想以上に心を震わせてくれました。その理由が、今回の「エロい化」論を拝読し、理解できたような気がします。若かりし頃のアルゲリッチもまた「エロい」雰囲気を漂わす美人、そしてまたショパンもまた英雄的に「エロい」人だったわけで(そのエロさは、おっしゃる通り、彼の虚弱な体質とは無関係。それに比べて、昨今の脂ぎったおっさんは「エロ以下」です)、曲のタイトルと合わせて、エロの三重奏、これが美しくないわけがありません。神聖なるエロは魂の新生をもたらしてくれるようです。
これからもブログを楽しみにしております。そして色々、否、エロエロ学ばせてください。

投稿: AS | 2010年1月22日 (金) 14時39分

ASさん、コメントをありがとうございます。私は不幸にしてショパンとは無縁の人生を送ってまいりましたが、コメントを拝読して、興味が出てまいりました。どちらかといえば、元美人のアルゲリッチのほうに惹かれます。偶然、西宮のコンサートへ一緒に行った件の友人も、アルゲリッチによるショパンのCDに言及していましたので、今度拝借して聴かせていただきたい、と考えております。

投稿: 宇則齋 | 2010年1月23日 (土) 11時50分

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