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運は定量か、無限か

   本人の満足感は度外視して、金と地位と長寿(福禄寿)を得ているか否かによって「幸運かそうでないか」を判定する運勢学的見地はさておき、運勢とは何かをみていこう。巷間、人間の一生の運は決まっており、商店街の福引きで一等を当てるようなそれほど重要でない局面で「運を使う」と、大事なとき不足して旨くいかないという説がささやかれている。

  「あ、こんなところで運を使ってしまった」

というのは、しばしば耳にする表現である。しかし、それは果たして本当なのだろうか。「運気」といい「運勢」というように、運は「流れ」として捉えられている。流れのもとは「あるものの動き」であり、そのあるものが森羅万象を作り上げているのである(王充『論衡』)。

  それは「原子」といっても「無限小の粒子」といってもいいのだろうが、その大本は現在の科学で「波動」などと呼ばれる「動く力」であろう。それが集まって世界が形作られているのである。とりあえず古代の中国人に倣ってそれを「氣」と呼んでおくが、これは「気象」や「生命の根源」という意味と「おくりもの」という意味がある(白川静『字統』)。「おくりもの」というのが重要だろう。ここから、「運気」とはある意味で贈り物であるといえる。そうして、「氣」がこの世に遍在するものであるから、「運気」も無限に存在すると言っていいだろう。

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  ではなぜ運気が衰退したり突然よくなったりするのか。それは月の満ち欠けや地球との引力関係によって干満が発生するようなもので、本来あるものの見え方が違っているだけである。ゆえに運が悪いからと言って激しく落ち込むこともなければ、いいからと言って悦びすぎることもない。十五夜に三日月を見たいと言っても無理なように、そういう氣の巡りになったら、そうなっている、と思えばいいのではないか。

   しかし、世の中には「満月」がずっと続いているかのように見える人もある。そういう人はいかなる魔法を使ったのか。さまざまな文献にその分析や「満月」でいる方法が書かれているけれども、最も手っ取り早いのは「満月」も「新月」もともに楽しむ、という心構えをつくることではないだろうか。それが「悟り」の一種ではないかと思う。ずっと同じ体調で沢山の仕事をこなすことが恐らく不可能であるように、ずっと同じ幸運を持続させることも不可能だろう。それは端的に「身体」がもたないからである。

   幸運期には気の振動が大きく(速く)、そうでないときには小さい(遅い)と仮定すると、猛スピードで運航する乗り物、あるいは大きく揺れる乗り物に揺られ続けていると疲れてしまうように、体も参ってしまうのである。衰運というのは、その疲れを癒すために、あまり活動しないように、といって休ませてくれる時期なのである。その潮目を読み違えて、揺れる乗り物をもっと揺らそうとしたり、休むべき時に休まなかったりすれば、その弊害は計り知れないだろう。そういうとき、もう乗り物に乗る体力が失われてしまうので、「一生の運を使い果たした」という気になるのである。しかし、実際は休む時は休み、乗っているときは乗っていれば、恐らく一生「好調感」を持ち続けられるのではないかと思われる。スポーツでも何でも、若いときにやりすぎると体を壊すが、ゆっくり体と相談しながらやっていけば、例えばボクシングのような激しい運動でも、一生続けられると思うのである。運気は、幸運期にはその流れに乗っていればよいが、衰運の時、どう休むかがポイントになってくる。そのあたりのことは又改めて考えたい。

                                  風海

追記

 これは約四年前に書いたものである。文章が硬くて、なんか重い。衰運の時、休むべきだと書いているが、これは絶頂からの下り坂の場合で、上り坂の場合、現時点でそこがどん底であっても、休むべきではないだろう。

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