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2010年1月

文化交渉学とは何か(講演ふうに)

はじめに

 どうも、風海衛門でございます。
 文化交渉学ということを軸に、歴史(学)のお話をせよという要請でしたので、少しばかりお話させていただきます(そんな要請はなかったが)。ここで、当たり前のように「文化交渉学」という語句を使っておりますけれど、よくよく考えてみますと、その実態は字句の明瞭さほどに明らかなものではありません。何がどうなったら、文化交渉であり、それをどのように観察すれば、文化交渉学となるのか。どうもその辺りのところが曖昧であるような気がします。アジア文化交流研究センター長(2010年現在)の松浦章氏の近著には次のような記述があります。

 「近世日本と中国との文化交流を見るとき、最も典型的なものは江戸初期より幕末までほとんど欠けることなく恒常的に続けられてきた長崎における中国貿易である」(『江戸時代唐船による日中文化交流』思文閣出版、2007年、440頁)

 ここに顕著なのは、文化の交渉というものを、二つ以上の文化圏の直接的な出会いの場に限定して分析しようとする態度ではないでしょうか。こうした問題設定のあり方が、いい悪いということではありません。従来の方法論によって研究している限り、どうしてもそうならざるをえないということもありますし、またそれが学会の潮流として広く受け入れられているという事情もございます。ともかく、文化の交渉、交流というからにはそういう研究を行うのが当然ではないかというのが、普通の理解でしょう。
 しかし、果たしてそうした一面的な理解だけでいいのでしょうか。古代から近世にいたるまで日本と中国の間には国力は勿論、文化的にも大きな差があり、中国からは色々なものがもたらされますが、日本からは中国人の生活を変えるほどに大きな文物を輸出したということがほとんどありません。こうした不均衡の中にあって、本当の意味での「交流」が果たされたといえるでしょうか。

 では、どのようなものとして文化交渉を考えればよいか。これはひとつの代案に過ぎませんが、私はそうした一面的な文物の流入しかなく、相互交渉の分析が出来ない場合、受け手におけるレセプター(受容体)がどのように成立していったかということを中心に考えていけばいいのではないかと思います。これは日中貿易だけではなく、例えばインド仏教の中国伝播を考える際にも適応できます。ご存知のように仏教はほぼ一方的にインドから中国へ入ってきたので、中国からインドへの流れは皆無に近い状態です。
 にもかかわらず、中国では老子が釈迦に教えて悟りを開かせたとする「老子化胡」の伝説がございます。こうした伝説が何故どのように作られていったのか、詳しいことはさておき、その事実は中国国内に仏教を理解し、少なくとも老子や荘子といった思想家に近い言説であるという理解が成立していたということを教えているわけです。これを観察することによって、中国国内に仏教への受容体がいかに形成されていったかが分かります。つまり、中国国内でではあれ、インドの文化と中国の文化が相互に交渉しあい、そのアウフヘーベンを通じて中国文化に単体ではありえない厚みをもたらしたことが看取されるのです。

 また、中国の西の辺境、居延というところから漢代の木簡が多数発掘され、そこに書かれている辺境防備の役職を研究すると、どうやら中央で把握されていた体制と違うルールが適応されていたということが分かってきました。これを漢代官僚制の側から見れば、制度の欠陥という結論になるかもしれませんが、辺境地帯の実際、つまり匈奴などの異民族との戦闘が日常的に行われていた場所における応急処置的な制度の改変という視点で見れば、異民族への対応による制度(文化)の変化ということが見えてくると思います。これは春秋時代に趙の武霊王が、従来の馬に引かせる戦車から、「胡服騎射」といって、ズボンをはいて馬に乗って弓を射るという戦闘スタイルに変えた事などと同じく、異民族の文化と中国の文化が止揚された果ての変化であることが分かります。

 もうひとつ、日本の茶の湯について。これは中国からもたらされたお茶と茶器(一部は朝鮮半島から)を日本で独自の使用法として一つの世界的な文化にまで高めた好例です。その背景には、宋代の文化というものが伏在しています。中でも禅宗とのかかわりはつとに指摘されるところですが、そもそも、その禅宗が宋代の文化に根づいたのは、中世から近世にかけて、戦闘のスタイルが変化したこともその一因ではないかと思われます。例えば三国時代の戦闘は、集団同士のぶつかり合いで、『三国志演義』に描かれるような華々しい英雄同士の一騎打ちは存在しませんでした。
 各軍団の大将はそれぞれ大土地を所有する豪族であり、本人が討ち死にすると全ての根底が覆るため、どんな武術の達人でも、戦闘時には軍陣の奥深くに身を潜めていたというのが実情でした。一騎打ちが行なわれるようになったのは、宋代に入ってからで、近世では一軍の統率者が中小の地主へと変化し、戦場における華々しい軍功によらなくては、出世することができないという社会構造が確立したからです。そこでは、『水滸伝』の好漢たちのように、大立ち回りを演ずるという、やや芝居がかったパフォーマンスが現れたのです(逆に、『三国志』の英雄の描き方には、宋代のこのような背景の影響が見られます)。

 この一騎打ちというスタイルは、そのまま仏教に変換すると、禅宗における僧侶同士の問答となります。これが徐々に日本へ輸入され、一つの茶の湯という形に統合された時、禅的なものでも、戦闘的なものでもない、日本独自の「気」による一騎打ちの場として完成されたわけです。ですから、初期の茶の湯は戦国大名に好まれたところからも分かるように、ただの呑気なお茶会ではなく、気を練る場、精神的な武術の鍛練の場としての性格が強かったであろうと思います(余談になりますが、豊臣秀吉が千利休を殺したのは、茶の湯における気の戦いにおいて、連戦連敗し、プライドを傷つけられたためであると私は思います)。

 このように、文化交渉というものは、実際に二つ以上の文化が出会う場そのものの分析ではなく、片方の文化における受容体の成立という面に焦点を当てることにより、その文化の発展への理解が深まるという形で考察されるのが、自然なのではないかと思います。

★道教文化の日本流入★

 話が大分文化交渉とは違うところへ来てしまいましたので、もとへもどり、日本文化と中国文化の接点として、道教文化の流入についてお話したいと思います。日本の文化が実は道教の文化を基底に形作られているといえば、驚かれる方も多いのではないでしょうか。しかし、これは故なき事ではなく、中国を北と南に分けたとき、日本に入ってきたのが南の文化だと言い換えてもいいからです。周知のように、上代の日本では遣隋使、遣唐使によって中国文化を輸入し、律令体制その他の制度を整備したわけですが、中央によって採用された制度以外の民衆レベルにまで拡張できる文化という面で見ますと、北のものよりも南のもののほうをより多く取り入れているわけです。なぜかと申しますと、遣唐使船はまず南の寧波に入港するのですが、そこから長安までいけるのは遣唐大使副使以下十数名に過ぎず、残りの乗員はみな港の側で足止めされるからです。
 その状態が数ヶ月も続くわけですから、後に残った人々が何もせずに大人しく宿舎にいるわけがありません。それぞれ興味の赴く範囲で書物やその他の文物を購入したり、様々な風習に接したりといったことを行い、それを日本へ持ち帰るのです。そういうわけで、遣唐使が正式に将来した制度や文物の数以上に、中国南方の文化が日本へ流入してきているわけです。その代表的なものが、道教に代表される呪術的な文化風習です。

 道教の研究者である福永光司氏は、中国の文化を大きく北と南に分け、北を馬の文化、南を船の文化と呼んでいます(福永光司『タオイズムの風―アジアの精神風土』人文書院、1997、『道教と日本文化』人文書院、1982年)。淮河から秦嶺山脈を境に気候が変化いたしまして、北は寒冷で乾燥しており、作物はアワ、ヒエ、キビ、大麦、小麦といったものになります。南は温暖かつ湿潤で米がとれます。北は草原砂漠地帯で、馬などの牧畜をして暮らし、肉とパンの食事が中心であり、南は漁労文化が発達して米と魚が主食です。また、北と南の違いを図式的に申し上げますと、北は儒教文化、南は道教文化、北は太陽を男性とし、南は女性とみる。北は右を尊び(右襟)、南は左を上とする(左襟、『論語』では野蛮とする)。北は偶数を好み、南は奇数を好みます(『老子』に「道は一を生じ、…三は万物を生ず」)。北は男性的な剛の文化、南は女性原理による水、柔の文化です。この両文化が混ざったのが、紀元前三世紀、楚(舟の文化)出身の劉邦が、北の中原で漢帝国を建てたことに始まります。
 武帝の時、馬の文化一色の様相となりますが、それは支配階層だけのことで、民衆レベルでは舟の文化は脈々と受けつがれていきます。道教はもともと紀元前六世紀頃のある一派の言行を、紀元前三世紀頃に記録した『老子』『荘子』を中心とする黄老道と、民間の呪術宗教が融合したもので、道教教団の成立は六世紀頃のことで、四世紀頃に江南で起こった変革を、六世紀に入って陶弘景がまとめあげ、上清派道教、茅山道教、また茅山が南京の東南約八〇キロの所にあるので、江南道教とも呼ばれました。シャーマニズムと『易』『老子』などの哲学を導入した神仙道が融合し、初期中国仏教の教説をも取り込んで、土着宗教化したものを集大成したのです。

 道教による日本文化への影響は、上澄みだけのものではなく、深く基盤にまで及んでいるわけですが、仏教界および神道界のネガティブキャンペーンによって道教の影響は「なかった」あるいは希薄なものとされてきました。学会においてもその傾向が強く、日本古代史はこれまで道教の神学、文化と日本文化の関連というものをまともに取り上げることをしてきませんでした。道教そのもの、道観や道士など具体的なものの将来は正式にはありませんでしたが、日本文化の形成発展にかなりの影響を与えたことは確かです。

 では、この道教文化は、どのように日本の文化の中へ入っているのか。たとえば天照大神という神様がいますが、このひとは女性ということになっている。太陽を女性とするのは舟の文化の特徴であり、馬の文化の星神(北極星)である「天皇大帝(すめらみこと)」が結びついて天皇家の先祖となったというわけで、福永さんはこうしたことを可能にした日本文化は、「外国の文化、文明のよいところを採り入れ、悪いところを捨て、新しい文化を作る能力に優れています」と述べています。ちなみに「天皇」という名称の初出は推古天皇の丁卯の年(607)に造られた法隆寺金堂の薬師像に刻まれた「池辺大宮治天下天皇」という銘文です。この「天皇」というのは道教では天皇大帝(太一神、玉皇大帝)であり、そのシンボルは剣と鏡です。これに四世紀の中頃、儒教のシンボルであった玉が最上位のものとして付加され、仏教の三尊像に倣ってできた道教三尊に配当されました。玉が元始天尊、鏡が太上道君、剣が太上老君のそれぞれシンボルとなります。この三種の神器が日本に導入されるのは、『日本書紀』(神代下)に、天照大神が葦原中国に降臨する瓊々杵尊に三種類の宝物として「八尺瓊の勾玉と八咫の鏡と草薙の剣を賜う」とあるのが最初ですが、天皇の象徴となるのは平安時代中期頃のことになります。

 それはちょうど藤原摂関家の時代ごろに当たるわけですが、そのときかかれた長編小説に有名な『源氏物語』があります。この小説は国風文化の元で書かれ、外来的な要素がないかのような印象ですが、実は道教の影響がかなり色濃く現れた文学でもあるのです。まず、冒頭の巻きを「桐壺」といいますが、これは完全に道教由来と分かります。道教では仙人の住むところを「蓬壺」といい、これになぞらえて宮廷の女官の部屋を「桐壺」「梅壺」「藤壺」「梨壺」などと植物の名で呼ぶ慣わしになっておりました。さらにこの巻きの下敷きは唐の白楽天の「長恨歌」ですが、この物語的な詩のストーリーは、亡くなった楊貴妃の魂を「臨邛の道士」(四川出身の道士)が魂呼びをして、玄宗皇帝と再会させるというものです。また著者の名を「紫式部」といい、光源氏の正妻の名を「紫の上」といいます。この紫という色は当時十一世紀の社会では天皇家に結びつく色だという通念があったわけです。中国では紀元前3~2世紀頃北極星(北辰の星)が神格化され「太一神」となります。この太一神の宮殿を「紫宮」といい、紀元前後になって太一神が天皇大帝と同一視され、その神殿が紫宸殿、紫微宮などと呼ばれます。北魏の時代になって、この天上の存在が地に投影されて皇帝の宮殿をも紫宮、紫微宮といいはじめ(『魏書』文帝紀)、日本へは北魏から天武天皇の時代に導入されます。それとは別に、漢の武帝が官僚制を整備した際、衣冠束帯の色を定め、紫を最上位としたことを受け、これが聖徳太子の冠位十二階の制度へと繋がっていきます。

 聖徳太子による冠位十二階の制定は、推古天皇の十一年(603)十二月であり、『日本書紀』推古天皇の同年の条に「十二月戊辰朔、壬申に始めて冠位を行う。大徳、小徳。大仁、小仁。大礼、小礼。大信、小信。大儀、小義。大智、小智。併せて十二階なり」とあり、また「並びに当色の絁を以て之を縫う」として、徳を紫、仁を青、礼を赤、信を黄、義を白、智を黒に配当しています(河村秀根『書紀集解』)。このうち、徳以外は儒教で言う「五常」であり、これを五行に配当しています。徳をこれらの最上位に置く思想は、五世紀、六朝時代に出来た『太霄琅書』によっています。また、「紫天」「紫清」「紫字上清」などといい、紫色を神仙の象徴とする考え方も同書によります。聖徳太子という人物が実在したかどうかはともかくとして、このとき冠位十二階や十七条憲法などをつくった人或いはグループは、かなりこうした道教文献に通じていたといえるでしょう。聖徳太子については、『日本書紀』推古二十一年(613)十二月条に、聖徳太子が道教の真人(不老不死の道術の実践家)と凡人を区別する能力があったと言う記述があります(道端で飢えていた旅人が、屍解していた、という話)。平安中期の大江匡房(1041~1111)による『本朝神仙伝』では、上宮太子は道教の真人そのものであり、「甲斐の黒駒に乗り、白日に昇天した」と記されています。この人はかなり陰陽道とか道教に詳しかった人で、『江家次第』などにもそういった関連のことがかなり書き込まれております。

 道教を中心とする呪術や天文などの技術が日本文化の中で根づき、発展した一つの完成形が「陰陽道」でしょう。道長の時代の安倍晴明の活躍が有名ですが、国風文化の中で道教は日本化されてその命脈を保ったわけです。安倍晴明の活躍を描いた岡野玲子さんの漫画『陰陽師』(白泉社)は、その思想背景をよく消化し、この技術=アートの本質に迫っています。晴明は律令体制の崩壊を告げる内裏の炎上の後、日照りが続く京の都に雨をもたらすべく呪法を行い、その一連の活動の最後のクライマックスとして、天地を一体化させる「三皇五帝祭」を執り行います。この部分は史実ではなく岡野さんの創作ですが、ここで再び本家の道教のほうへと陰陽道を近づけたのは、慧眼であったと私は思います。三皇五帝は三皇(フクギ、ジンノウ、ジョカ)と五帝(五つの方角)の融合で、岡野さんの説では上下縦軸と平面横軸の一体化を意味します。中国の「皇帝」という名の由来も、案外この辺にあるのではないかと思うのですが、これはまた別のはなしになります。
 陰陽道はその後平安貴族の権力闘争に利用され、そういった形で展開して行きます(村山修一『日本陰陽道史話』平凡社ライブラリー、2001年)。関白道長への呪詛を見破った安倍晴明の話などもそうですが、源平合戦の前哨戦ともう言うべき保元、平治の乱(1156、1159)において、その勝敗の分かれ目が両軍の指揮をとった藤原通憲、頼長という二人の陰陽道を信奉する貴族の判断の違いに依った、という話が『保元、平治物語』に伝えられています。この頃もその後も、戦争を行う際に陰陽道由来の易や占筮が使われていたようです。
 
 日本では制度的な面ではそれとなく、また呪術的な面では陰陽道という形で、道教を受容しております。道教が、禁忌、呪詛、卜占、天文、暦数といった実際的な面において、「日本文化」として定着していることが分かります。本家の道教そのものとの比較において、日中文化交渉の実際面が明らかになるのではないでしょうか。今回はそうした考察の結論ではなく、問題提起として様々な例と、考え方の道筋だけを申しあげました。これをきっかけにして、文化交渉という視点から、日本なり中国なり、或いはその他の文化圏なりをご覧になってはいかがでしょうか。その際に、ただ異文化どうしの接触点を探るだけでなく、純粋にその国の文化だと思われるところに、案外文化交渉からのインパクトが潜んでいるのではないか、つまり、そこにこそ文化交渉の痕跡があるのではないかという見方をしていただければ、ずいぶん視野が広がるのではないかと思います。
 今日は、文化交渉学とは何かというテーマを肴に、雑駁な事柄を取り扱いましたので、ちょっと混乱されたのではないかと思います。ご質問がありましたら遠慮なくおっしゃってください。私のお話はこれで終わります。

         風海衛門

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お不動さん

 お不動さんは、なぜ怒っているのか。

 ということに、疑問を持った。何に対して、どれくらいの怒りをもっておられるのだろうか。とにかく、どのお不動さんも、お顔を拝見する限りでは、その怒りは半端なものではない。怒られているのは、私だろうか。観音様にあんなお願いしたから、突然乱入してくる体育の先生みたいに、代わりに出てきて、「こらっ」という按配なのか。それにしては、「一願不動尊」なんて、お願い事をかなえてくれるというので、人気がある。

 ふつう、あんな怖い顔をした人に、「えらいすんませんけど、アレちょいとコナイなりまへんやろか」なんて、気安くいけません。

 お不動さんはなぜ怒っているのか。

 ちょっと腰をすえて考えてみたいと思います。

    風海

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IQ38の世界

  深夜漫然とラジオを聴いていると(某国々営放送のラジオ深夜便)、障碍児をもつお母さんが出演しており、子供がテストを受けたときの状況を語っていた。
「お父さんは男です。それではお母さんは」
  と聞かれ、その子は即座に、
「お母さんは大好きです」
 と答えたのであったという。
 質問の主旨は明らかに父母の性別を問うているので、通常であれば「女です」と答えられるのであるが、その子はお母さんと聞いた瞬間に「大好き」という心情を吐露する方へ回路が繋がったのである。それを、お母さんは「暖かい世界」だと表現していた。

 確かに、理知は冷たいものである。そして知恵の発達は人間を浅くする。損得勘定と自我によって、究極的には「現在の」自己と「自我」が規定するものしか、自己とは認めず、他者を永久に排除する方向へ、その動きは向かう。だから特別理知的でなくても、人は冷たくなる。 IQではかる知恵が遅れているということは、何かが欠如していると捉えられがちであるが、もしかすると、多すぎるところから来ているのではないだろうか。
 つまり脳内が星雲状態にあって、発生するエンドルフィンの量も通常の人間よりも多いのかも知れない(生化学のことはよく分らないが)。どこかであるお坊さんが、「知恵遅れではなく、知識遅れと言いたい」と発言したという話を読んだが、確かにと頷くと同時に、「知恵ではなく知慧に不足はしていない」と付け加えてみたい。彼らは無意識の領域が大きいのである。そしてそれは宇宙へと直結しているが(星雲状態というのはそういうことでもある)、そのことをきちんと分析的に表現する言葉を持たないのである。
 見事な絵を描く自閉症児の研究によってラスコーの壁画などを描いた流動的な知性の存在が明らかとなったように(中沢新一『芸術人類学』)、この暖かい世界に触れることで、悟りへ通じる無意識の経路が明らかになるのではないだろうか。

 寒山拾得の大笑いなど、明らかに分析的な知性では理解しがたい。それを分ることができるのは身体感覚としてその状態に近づいたときだけであり、それは分析的知性の機能停止を意味する。禅が文字を廃せというのは恐らくそこからだろう。老子が赤ちゃんの状態がもっともいいというのは、単に体が柔らかいからだけではなく、脳内も暖かいからである。そう考えていくと、知性を先鋭化する方向だけに向かうのも考え物ではないか。暖かい脳から学ぶものは、理性的なことばで語る立派な師匠と同じくらい大事なのではないだろうか。昔の共同体はそういう人物を受け入れてきた。精神的な師匠に対してそうしたように。しかし現在の世の中は、「実学」(学んだ知識技能がすぐに換金可能な学問)へ向かい、そうした迂遠な方法を採らなくなった。しかし、真の教養というのは、そういう人々ともつきあい、脳内に自分の星雲を育てることでもあるのではないだろうか。

         風海

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楽業成就

25日は天神様の縁日ということで天満の大阪天満宮にお参りしました。宇宙文化研究所を創設したばかりですし、私たちの学業成就を祈念する意味もあります。

1月は年始の縁日「初天神」です。拝殿には他の日には見られない特別な神饌がお供えされていました。(↓神饌の梅の小枝)

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夕方からは嘉門達夫のライブと阪神の若手選手による福玉まきがあるそうで、準備で何やら騒々しい雰囲気です。
本殿を参拝できる登竜門の通り抜けも行われていたのですが、こちらは受験生向けの企画で、合格祈願の絵馬か学業成就の御守りを買わないと通れないとのこと。
出世の沙汰もやっぱり金次第なのかと興醒めしてしまいました。

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そんな中、心を和らげてくれたのは、境内の梅の花です。

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 東風ふかば
  匂ひおこせよ
   梅の花 
  あるじなしとて 
   春な忘れそ          

   菅原道真

さて、天神さんから梅田に向かって10分ほど歩くと真言宗のお寺、太融寺に着きます。
繁華街のHotelが隣接しているアリガタイ立地です。

このお寺には「一願不動尊」がおられます。

私も職場の人間関係に悩んでいた頃には何度か足を運んでお願いしていましたが、今、こうして心身元気にしている所を見ればご利益はあったのでしょう。

毎月28日のお不動さんの縁日には、梅田に近いということで、お参りの人が絶えません。
この日は10時、2時、4時の三度のお護摩があり誰でも参加できます。お堂のなかでお坊さんが護摩の火を焚き、参拝者が般若心経や不動明王の真言を唱えるのですが、燃え上がる炎、読経、太鼓のリズムで気分が高揚します。きっとこれが参拝後の爽快感につながるんですね。

先に訪ねた天満宮に比べると、聖俗混淆した中にあるからでしょうか。手を合わせていると、天満宮よりも心の高まりが感じられます。
さまざまな願望欲望の渦巻くなかに立っているお不動さんです。

「楽業」成就ということであれば、天満では繁昌亭に、キタでは太融寺とその周りの施設に行って人生と「問いを開く」ための幅を広げた方がいいのかも知れません。

 空味

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楽問のスゝメ

 「学問」という言葉は「学んで(真似して)、問う」あるいは「問いを学ぶ(真似する)」というふうに読める。どちらも大事なことには違いがないが、終生そのような態度でいて果たして面白いことができるだろうかと考えたとき、そこから離れてみることも大事なのではないかと思うようになった。その契機はいろいろあるが、象徴的な事件をひとつあげよう。
 ある友人の博士論文口頭試問公聴会でのことだった。彼の論文を気に入らなかったと見える副査の某教授が、「君はさかんに自分の問題関心が、と言うが、問題というのは学界に属しているものであり、君のものではないのだ」と公言したのである。問題は学界に用意されており、学者はそれを適宜解いていけばいい。それが研究者の仕事だ、そう教授は言うのである。ぼくは何か冷たいものを背筋に感じた。端的に、これはいかん、と思った。もし本当にそうなら、絶対面白くない。

 『論語』雍也第六に次のような言葉がある。「子曰く、これを知る者は、これを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず、と」(宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店、1974年)では「子曰く、理性で知ることは、感情で好むことの深さに及ばない。感情で好むことは、全身を打ちこんで楽しむことの深さに及ばない」と訳されている)。学問研究は、その客観性重視のため、いきおい自分を「知る者」、思いきって進んでも「好む者」の位置に留めるストイックな姿勢が求められてしまう。
 ごく公平に言ってストイシズムは悪くない。しかし、時として硬直してしまう。悪くすれば居着いて動けなくなる。そして何より愉しくない。ぼくはともすれば自分の問いを否定されるような「学界」などやめてしまい、「楽界」に入りたい。そこは「楽しんで問う」または「問いを楽しむ」ことのできる「楽問」の世界である。そのほうが、「考える」ということをより実行しやすくなるからである。

 では、「考える」とは、本当はどういうことなのであろうか。そもそも研究者といわれる人々は、ものを「考えて」いるのだろうか。ぼくが親しんできたのは主に文学・歴史学だが、「~について考察する」という文字を見ることはあっても、「考察するとはどういう行為なのか」が分かる形で表現されたものに出会うことはほとんどない。
 まず、「専門家」とはどういう人のことなのか。普通一般にはある分野のことを何でも知っている人、ということになるだろう。しかし、それだけでは十分でない。ぼくはその上に「その分野で何が分かっていないか分かっている人」という要素をつけ加えたい。そうでない限り、「問い」が発見できないからである。
 つまり、専門の研究者とは、その分野で「問いを見つけることのできる人」ということになるだろう。誰も見つけられなかったような重要で魅力的な問いを発見して、はじめて「専門家」と言いうるのではないか。どうすれば、そうした問いに行き当たるのか。そこに「考える」必要が入り込むのである。つまり「学界お墨付きの問題」を自分なりにアレンジして研究をするのではなく、みずから考えて「問い」へとにじり寄る。すなわち問いをめぐる思念の動きが「考える」ということなのである。

 そのためには、ただ疑問点を見つければいいというものではあるまい。そこからさらに大きな場へ向けて、「問いを開く」ことが大切である。つまり、A=Bを証明することで、「A=Bが分かった」だけでなく、その他の問題への解答やヒント、または新しい問いへの経路が開かれるような器の大きさを持ちたいと思うのだ。そのための仕方として、「A=B」だけで閉じてしまうのではなく、「A=B」から何かが始まるような仕掛けをほどこすのである。

 これをぼくは「問いを開く」と表現したい。もっとも、言い方は何でもよくて、内田樹さんに倣って「問題の次数を上げる」と言ってもいいし、苫米地英人さんのように「思考の抽象度を上げる」と言っても同じことである。ただ、これらの言葉に満足せず新たなフレーズを作ったのは、上下の垂直ラインだけでなく、水平ラインをも含む広がりを強調したかったからである。だからぼくは自分の問いが宇宙いっぱいに広がってゆくことをイメージしつつ、「問いを開く」と表現してみたのである。そのように思考すれば、楽しんで問い、問いを楽しむ、という姿勢が、自ずと作られるのではないかと思う。
 
 新たに構想している研究所の総タイトルとして「楽問館」とつけたのは、そういう願いを込めてのことである。研究成果の今日的意義にこだわるのではなく、先ずはしっかり自分の問いを楽しむこと。そこからこそ宇宙への還元が始まるのだと信じている。

               宇則齋にて風海識す

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2010年 万年筆の旅☆ その三

この一本!決定

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私の新しいパートナー。
ヴィスコンティのレンブラントよ。

――えっ、彼のどこが気に入ったか?
相性はもちろんよ。でも決め手は色気ね。
この心狂わす鮮やかな赤。
遠慮のない意見をズバッと言うところが若いのよね。
でも20代にはない陰影があっていいでしょ。

――ちょっと錦鯉に似てませんかですって?
いいじゃない、錦鯉。水の中をつーっと。
色っぽいでしょ。

――パートナーには自分にない部分を求めるものですが
って、あなた痛いこと言ってくれるじゃない。

――以前の方と比べた感想?
よくそんなことが聞けるわね。
でも敢えて言うなら、昔はトヨタ・カローラ。
今はアルファ ロメオかしら。とにかく官能的なのよ。

――浮気!?
そんなものする訳ないじゃない。
私の「この一本よ!」。「武士の魂よ!」

というわけで。
下から突き上げる炎、舞う火の粉が不動明王の
火焔を思わせます。
あまりのパワーに、つい筆が引っ張られてしまいますが
今までの自分になかった、もしくは隠れていた部分を
引きだしてくれるような一本にめぐり逢えた気がします。

前述のオネエさんは、浮気はしないとおっしゃってますが、
それは、これからのお付き合い次第なんでしょうか?

彼or彼女との旅はここからが始まりです☆

            空味

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宇宙文化研究所創設のお知らせ

 このたび、われわれ思考の実験室を中心に、「宇宙文化研究所―楽問館―」を設立することになりました。キャッチフレーズは「スピリット・オブ・ユニバース」。カッコいいでしょ(半笑)。

Imagesca06ngi9 この世の事象は全て宇宙の現象であるという観点から、あらゆるものを宇宙文化と位置づけ、枠に縛られない研究活動を行いたいと考え、このような研究所を設立しよう、というわけです。ぼくたちは、現在日本の「研究環境」を多様多彩で楽しいものにしてゆきたいと思っています。既存の研究機関、施設に受け入れてもらえないのなら、自分で身の丈に合うものを作ればいいじゃないか、ということです。

 また表現形式においても、論文や研究発表というのは、ある一定のレベルのものをコンスタントに生産するにはいい制度ですが、何か度外れた、宇宙大に大きな思考というものを生み出しにくいように思います。まず、しなくてはならないのは、魅力的な問いを見つけ、それを広いところへと開いてゆくということ(この「問いを開く」ことについては、「楽問のススメ」において改めて詳述します)。そこで、「問いを楽しむ」という意味の「楽問館」という名を、新しい研究所の総合意的な名前としたいと思います。

 好きなことをするのに、何かを我慢したり、耐えがたきを忍ばなければならないという、20世紀的マインドから自らを解放する意味でも、この研究所は成功させたい。ご賛同いただける方は、ぜひご一報ください。

         楽問館々長予定 風海
 

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神仏依存症

友人から「本当に信仰心あるの」とつっこまれて
落ち込んだ。これでも人並み以上には神仏を信じて日々
手を合わせてお祈りしている。
彼曰く、私はお釈迦さまや弘法大師の説く本来の教えが
理解できておらず、さらにその教えを聞いても実践しようと
しないのは、本当の信仰じゃないということらしい。
ああお大師さま。
これまでの私の信仰心って何だったんでしょ?

そういえば、密教の修行である四度加行(しどけぎょう)
を受けたイギリス人の友人からもこう言われ、答えられ
なかったことがある。
「あなたは、仏教の信者でしょう。だったらなぜ加行を
 受けないのですか」

〈なぜって。だって私には必要ないような…。
 加行はお坊さんの資格が欲しい人だけが受ければいいもの
 じゃないの…〉

彼女によれば、護摩行をしていると自分の中にあるモヤモヤ
したものが解消され、精神が研ぎ澄まされていくらしい。
行を終えた彼女の顔は弥勒菩薩のように穏やかで、
まぶしかった。

――ふと周りを見渡せば、右も左も仏さまのご利益を求めて集まる衆生。

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ここは、西宮市の門戸厄神東光寺。毎年1月18日、19日は
厄除大祭が行われている。門戸厄神という名前から神社だと
思われることが多いが、れっきとした真言宗のお寺である。
私も例年の習慣で、お参りせねば気が落ち着かず、厄年でも
ないのに厄払いにやって来たというわけである。
厄神明王の前でお賽銭を入れ、手を合わせる。
〈どうぞ、厄を払ってください。厄神さま〉
こんなに信心深いのに、何が違うんだろう。

加行を受けた友人とご利益を求めてお参りする私。
どちらも、仏に向かっていることには変わりはない。
でも向かい方はだいぶん違うようだ。

どのように違っているかというと、私は家内安全、良縁成就、
学業向上etc.ご利益を求めて神仏に取りすがっている。
「なんかええもんおくれー」というスタンスだ。
私の心だけが強く神仏に向っているのである。

では、友人の場合はどうか。
仏の前でclear になる。静観している。
空海は「自分の心のなかにこそ仏がいる」と説いているが
彼女は自分のなかの仏と向き合っているのである。

求めて与えられるのを待つのではなく、
自分が本来持っているものを十分に開花させることが
「悟り」に繋がるのかも…と思いつつも、依存する心は
なかなかしぶとく残っているのです。

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          孫悟空な空味子

逆立ちが上手なお猿(厄除大祭で)

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氣で持つ

 早朝、合氣道を習っている道場で毎週行われている「息心の行」に参加する。
 息心は井上正鉄(まさかね)の神道禊教に起源を持つ呼吸法の行である。三十分くらい鈴を振りながら「と・ほ・か・み・え・み・た・め」と大声で連呼するというもので、終わると声がかれるが実に気分がすっきりする。

 そのあと、H先生、Oさんと共に第九体技(正面打ち)まで練習し、I原先生、Y田先生を交えて皆で喫茶店に行く。Y田先生と帰りが一緒になったので、「氣で持つ」ということについて質問した。肉体的な力ではなく、「氣」を通してものを持つことを「氣で持つ」と表現する。何であれ力を抜いて、ふわっと持つべし、と教わるのだが、相手がいるとなかなかそうは行かない。なんでもすぐに答えを得るのは良くないが、一人で考え続けていると次第に五里夢中に入ってゆくので、こういう場合は素直に聞いたほうがいいと思う。

 先生の解答はシンプルだった。「心を、持つところに止めないこと」。そうして、心でまず相手(物体も同様)を持ち、それから手を添えるのだと言う。その上で、相手に氣が通っていることをイメージする。あるいは、氣で相手を包み込む。まず意識が先行するのである。大事なのは肉体を忘れて、自分を純粋なエネルギーだと思うこと。その意識を反映したものが、すなわち身体なのである。

 合氣道はおもしろい。うちの道場(団体)だけかもしれないが、先生方皆さん言うことがどこか仏教じみている。明らかに宗教などとは無縁そうな人も、お釈迦様の言葉にそっくりなことを言うのである。

 Y田先生も言われた。「とらわれてはいけない」。対象にとらわれると、そこで氣が止まる。氣が止まると何も出来なくなる。そして肉体を超えるエネルギーを実感できたところから、「氣」の話は始まるのだ。そこからは、いかに「しずまっている」かが分かれ目となる。

 そしてまた、宇宙の果てまで氣を出せと教わっている。宇宙大の自分を構想せよと言うことである。そうでなければ投げられない。澤木興道老師も「天地いっぱいの自分」ということを強調されている。

 合氣道をやっているということは、つねにそういう「思想」に触れ、かつ実践し続けていると言うことである。体を動かしながら、同時に哲学もできる、だから飽きないのだと思う。

                風海衛門

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エロい化

 もう数年前のことですが(二〇〇六年九月三十日)、友人と西宮にバイオリンのコンサートを聴きに行き、大変愉しいひとときを過ごしました。その演奏者が美人だったのが良かったみたいです。ニコラ・ベネデッティという、イタリア人のような名のスコットランド人で、まだ二十歳前なのに、殆ど円熟と言ってよいくらいの技巧的冴えを示し、陶酔の郷にいざなってくれました。

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 小さなホールの舞台に明かりがともされ、彼女は出てくると伴奏のピアニスト(アリスン・リンド、この人も美人だった)としばし音を合わせ、やおら向き直ると肩とあごで楽器を挟み、両手で弓をもって剣でも構えるような姿勢を取ったかと思うと、突然はじかれたように弾き始めました。その、ブラームスのF・A・Eコンチェルトの、第一音が鳴らされたとき、あたかも彼女の手に素肌を触れられたかのような感覚が走り抜け、そのまま天上へ引き上げられたのでした。

 その数日後(二〇〇六年十月八日)僕は、梅田スカイビルでやっていたWBSワールドビアサミットへひょんなことから潜り込み、友人が下戸だったためビールを飲まず!舞台上で演奏されている音楽などを聴いていました。
そのなかで、チームアンダルシアという、フラメンコのダンサーがおり、これが素晴らしく、大いに感銘を受けました。
何がいいと言って、エロいところがいい。そういうと、なにか公序良俗に反する意見のように聞こえますが、さにあらず。芸術=創造力=生命の燃焼とすれば、当たり前のことなので、神聖な清らかさと、エロさとは矛盾しません。
 その日の午後にあった御堂筋パレードで、そごうの一階でフルートとピアノの演奏を聴きましたが、そんなに悪くなく、演奏者のお姉さんも綺麗だったのに、何か感動が薄いわけです。なぜだろうと思うと、それは彼女がエロくなかったからで、そういったエネルギーを押さえ込んでいては、芸術は全うしないものだと言うことが分かります。

 そういうことを、フラメンコ見ながら考えていたわけで、まあ、実際フラメンコは踊りの中でも特にエロいわけですが、しかし、そうでない人がやったら、多分エロさよりも運動性の激しさの方が前面に出てしまい、何の感興にも通じないものになるでしょう。
「エロい」。何といい言葉でしょうか。発音し、舌の上で転がしてみてください。これまでにも芸術はエロいと多くの人が言っておりますが、やはり実物を見て実感すると、雷鳴に打たれたような感動があるものです。生命の根源にある、この力こそミューズたちの加護といえるでしょう。(淫猥になるか、美になるかは、その人の力次第)

 ニコラ・ベネデッティの演奏を聴いて間もないあの夜、見たフラメンコの感動からまだ醒めず、そのとき共時的に頭の中にひらめいた「エロ」というテーマが、今私の中で徐々に深まりを見せています。齋藤孝流に言えばこれを「技化」するのが、当面の課題です。ただ、技化というと真似になるので、最近流行の言い回しを使って(これも広義の真似ですが、少し違うところもあると思うので)人格や、行動や作品やの「エロい化」と名付けようと思います。(その元ネタの「見える化」ということばを新聞の誰かのエッセイで見たときの、違和感たるや、ちょっと忘れがたい)

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「エロい化」とは、「英雄(エロイカ)」にもかかっていますが、出典は『荘子』で、巻五の徳充符篇に載っている「哀駘它」というおっさんのお話がヒントになります。哀駘它は特に何ということもないどころか、ちょっと人が驚くようなブ男で、別段特技も優れたところもないのに、男からはその人格を慕われ、女たちは他の男の妻になるよりもこの人物の妾になりたいと親に頼み込むという有様でした。
 何もないようなのに、厳然と徳がある、いや溢れているという、この哀駘它を、荘子は道を得た人物であるととらえているわけです。
 このことを私なりに表現しますと、「創造力」(活力=エロス)が体中に満ちていると言うことで、ジョルジュ・バタイユの言う「エロティシズムとは絶えざる生命の燃焼」というところと一致するわけです。

 そういう人物を目指して人格を陶冶?してゆくことを、「エロい化」と呼びたいわけで、それは自己の領域の拡張にも繋がることだとおもいます。そして、エロには欠かせないのが「触る」という行為ですが、ただの痴漢になってはいけません。
 痴漢やセクハラについてはいろいろと言いたいこともあるのですが、今取り合えず簡単にいえば、セクハラ痴漢とは、エネルギーの低下したおっさん(脂ぎっていることと、エネルギーレベルの状態とは一致しない)が、わらにもすがるような按配で若い女の体や、精神(心と体はその密度が違うだけでその実同じモノの表裏なのです)に身体や視線や言葉で触れることにより、一時的に回復しようとするせこい行為で、これをやられると名状しがたい嫌悪感に襲われます。
 「減るもんじゃないだろ」というけれど、確実に「盗って」いるんだから、「減る」わけです。ストレスフルな都会の中で、たださえ低下しがちなエネルギーを、おっさん如きに盗まれる無念はいかばかりか…

 これでは、いかんと思うので、この「エロい化」を目指す者は、与える者でなくてはなりません。触ることによって、相手の女にエネルギーを分け与える、という按配に。だから、逆説的に言えば、完全に充足しきったときでなくては、相手を求めてはいけないという、非常に困難な修行が必要になってきそうですが、まあ、そのあとはこれからの課題と言うことで。

                                    風海

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運は定量か、無限か

   本人の満足感は度外視して、金と地位と長寿(福禄寿)を得ているか否かによって「幸運かそうでないか」を判定する運勢学的見地はさておき、運勢とは何かをみていこう。巷間、人間の一生の運は決まっており、商店街の福引きで一等を当てるようなそれほど重要でない局面で「運を使う」と、大事なとき不足して旨くいかないという説がささやかれている。

  「あ、こんなところで運を使ってしまった」

というのは、しばしば耳にする表現である。しかし、それは果たして本当なのだろうか。「運気」といい「運勢」というように、運は「流れ」として捉えられている。流れのもとは「あるものの動き」であり、そのあるものが森羅万象を作り上げているのである(王充『論衡』)。

  それは「原子」といっても「無限小の粒子」といってもいいのだろうが、その大本は現在の科学で「波動」などと呼ばれる「動く力」であろう。それが集まって世界が形作られているのである。とりあえず古代の中国人に倣ってそれを「氣」と呼んでおくが、これは「気象」や「生命の根源」という意味と「おくりもの」という意味がある(白川静『字統』)。「おくりもの」というのが重要だろう。ここから、「運気」とはある意味で贈り物であるといえる。そうして、「氣」がこの世に遍在するものであるから、「運気」も無限に存在すると言っていいだろう。

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  ではなぜ運気が衰退したり突然よくなったりするのか。それは月の満ち欠けや地球との引力関係によって干満が発生するようなもので、本来あるものの見え方が違っているだけである。ゆえに運が悪いからと言って激しく落ち込むこともなければ、いいからと言って悦びすぎることもない。十五夜に三日月を見たいと言っても無理なように、そういう氣の巡りになったら、そうなっている、と思えばいいのではないか。

   しかし、世の中には「満月」がずっと続いているかのように見える人もある。そういう人はいかなる魔法を使ったのか。さまざまな文献にその分析や「満月」でいる方法が書かれているけれども、最も手っ取り早いのは「満月」も「新月」もともに楽しむ、という心構えをつくることではないだろうか。それが「悟り」の一種ではないかと思う。ずっと同じ体調で沢山の仕事をこなすことが恐らく不可能であるように、ずっと同じ幸運を持続させることも不可能だろう。それは端的に「身体」がもたないからである。

   幸運期には気の振動が大きく(速く)、そうでないときには小さい(遅い)と仮定すると、猛スピードで運航する乗り物、あるいは大きく揺れる乗り物に揺られ続けていると疲れてしまうように、体も参ってしまうのである。衰運というのは、その疲れを癒すために、あまり活動しないように、といって休ませてくれる時期なのである。その潮目を読み違えて、揺れる乗り物をもっと揺らそうとしたり、休むべき時に休まなかったりすれば、その弊害は計り知れないだろう。そういうとき、もう乗り物に乗る体力が失われてしまうので、「一生の運を使い果たした」という気になるのである。しかし、実際は休む時は休み、乗っているときは乗っていれば、恐らく一生「好調感」を持ち続けられるのではないかと思われる。スポーツでも何でも、若いときにやりすぎると体を壊すが、ゆっくり体と相談しながらやっていけば、例えばボクシングのような激しい運動でも、一生続けられると思うのである。運気は、幸運期にはその流れに乗っていればよいが、衰運の時、どう休むかがポイントになってくる。そのあたりのことは又改めて考えたい。

                                  風海

追記

 これは約四年前に書いたものである。文章が硬くて、なんか重い。衰運の時、休むべきだと書いているが、これは絶頂からの下り坂の場合で、上り坂の場合、現時点でそこがどん底であっても、休むべきではないだろう。

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2010年 万年筆の旅 ☆ その二

北浜の万年筆専門店に行ってきました。
今回見せていただいたのは次の品々。

・パイロット エラボー
 書きやすい。でも
 手の小さい私には少し細くて安定しない。

・セーラー プロフェッショナルギア 万年筆店 オリジナル
 パイロットのもそうだけど、国産品を侮っていました。
 ほんとに書きやすいんです。
 筆運びも滑らかだし、安定感もいいな。
 でも、国産品って輸入品に比べて遊び心が少ないんですよね。

・アウロラ オプティマ バーガンディ 
 よい。アウロラ特有の樹脂が個性的。
 この万年筆で書いたら文章の品格が上がりそうだな。

結局 「この一本!」を決める踏ん切りがつかず、
とりあえず退出して老舗の和菓子店・菊寿堂で一服。

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阪急百貨店の文具売り場へ移動。

・ヴィスコンティ ヴァン・ゴッホ
 ボディーの油彩みたいな雰囲気が素敵です。
 でも売り場にあるペン先は好みじゃなかった。

・ヴィスコンティ レンブラント 白・黒
 よい。輸入品でこの価格、この書き味は今までにない。
 スチールなのに書きやすい。 
 他の色も見てみたい…ということで保留に。

☆旅はまだ続くのです。

                     空味

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2010年 万年筆の旅 ☆ その一

  今使ってるWATERMANは、よく手に馴染んでるんだけど、ペン先が固くてなんかひっかかる感じがする。
そこで、「この一本!」という万年筆を求めて、最近文房具売り場をさまよっている。

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 先週は梅田ヨドバシカメラの万年筆売場で三点の万年筆を見せてもらった。

・パーカー 万年筆 デュオフォールド チェックブルー
 筆の運び、手の馴染みはよいが、ペン軸部分が狭くて何だか落ち着かない。

・パーカー 万年筆 ソネット プレミアム シルバーCT
 筆運びがいまいちピンとこない。

・カランダッシュ 万年筆 デュナス シャイニー コレクション 
 軽い。万年筆はもっと重い方が好き。

 ペン先はやっぱり柔らかい方がいいな。でも値段がupする。
 2、3万円でいい万年筆がないか、2010年万年筆の旅は続く…。
 今日はこれから北浜の専門店に行ってきます。

                              空味

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夢が浮世か、浮世が夢か

 一月は初詣を始め、神さま、仏さまに向かって手を合わせる機会が多い。
こちらは神さま、仏さまを見つめる一方だけど、神仏の皆さんは私たちを
どんな感じで眺めていらっしゃるのだろうか?

 文楽の初春公演を観てドキッとさせられた。こちらに向かって神妙に手を合わせる顔を見たからである。
『壷坂観音霊験記』は盲人の沢市さんと妻お里さんの物語。二人は眼病封じで霊験あらたかな壷阪寺の観音さまにお参りする。

 「サアサア沢市様。観音様へ来たわいな。」とこちらに向かって手を合わせるののは、観客側がお寺の本堂という設定だ。
疱瘡であばた顔の沢市さんだが、ずいぶんな男前。夫を思うお里さんの一心にお祈りする顔も美しい。

〈あぁ、私たちが観音さまなのか!?〉っとハッと気づく。

 お話では、沢市さんは妻を不憫に思い、深い谷底へと身投げしてしまう。お里さんも夫を追って死出の旅。谷間へ落ちるのだが、観音さまの霊験によって
二人は命を取り戻し、沢市さんの目も見えるようになっているというストーリーだ。

 そもそもこの段は、「夢が浮世か浮世が夢か、夢てふ里に住みながら、住めば住むなる世の中に…」という言葉で始まる。

 もしかすると、目が見えるようになって生き返った世界は夢かもしれない。
いや、目の見えない中の辛い日々、生き返った後の世界、どちらが浮世か夢かわからない。

 ただ、観音さまに見立てられた観客が、手を合す二人の姿を見て〈救ってあげたい〉と思ったことは確かである。

                    空味子

 

Dscn5603_2 文楽劇場に奉納された鯛

           

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シャキーラと石川さゆり

  最近体力作りの一環として、ずっと四股を踏んでいる。
 三、四十分黙々とやっていると、その間何となくものさびしいので、音楽を聴く。クラシックやジャズもいいが、この間久々にCD屋さんへ行き、シャキーラの最新アルバム『SHE WOLF』というのを買って、今はアップテンポに乗せられてやっている。

Thumbnailca70jd7i  シャキーラは、初期のころからよく聴いている。歌声が艶めかしくて、どこか懐かしいところがいい。何が懐かしいかと言えば、少年の頃から憧れていた石川さゆりに似ていると思うからである。石川さゆりは「津軽海峡・冬景色」で「私も一人連絡船に乗り、凍えそうな鴎見つめ泣いていました。ああああ~」と歌う時の、声の「ねじれ」が好きなのだが、シャキーラの歌声もどこかその発声法に似ていると思うのである(ぼくだけかも知れないが)。

Thumbnailcal7p9r2  二人の声の「ねじれ」は、高音が伸びる時の倍音効果に由来するのではないかと思うのだが、あたかも三次元が四次元に転換するかのような印象を与える。即ち聴いているうちに違う世界へといざなわれるような気がしてくるのである。

 シャキーラのパンチの利いたリズムに乗って四股を踏み続けているうちに、次第にペースが速くなり、今は三十分で大体五、六百回ほどできるようになった。速ければいいというものでもないのだが、体が動くに任せているとそうなったのである。

                      風海

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東寺の行道

一月十一日、京都の東寺(教王護国寺)に行った。空味さんの縁者が参加している「後七日御修法(みしほ)」の行道(お坊さんの行列)を見るのが目的である。御修法とは寺内の灌頂院において災厄払いの息災護摩壇と招福の増益護摩壇などを設けて、おもに鎮護国家の儀式を奉修するものである。

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十二時半ごろついたが、一時半の行道までにはまだ時間があったので、その場所だけ確認しておこうと結界の張られた玉砂利の道へ行きかけたとき、丁度寺務所の門から現れた若い僧侶が、まさに空味さんの縁者であった。多分直接には会えないだろうといわれていたので、ちょっとした驚きだった。

そこで正しい開始時間を聞き(はじめ「二時から」と言われたが、後に空味さんの携帯に連絡があり「一時半」と訂正された)、特別拝観を行っていた五重塔、金堂、講堂を見学する。そこで今度はぼくの知人、道場でお世話になっているSさんにばったりはち合わせした。自慢ではないが、ぼくは外であまり知った人に出会わない。ぼくを見かけたよ、と後で言う人はいても、その時こちらは気づいていない。とにかく、何の打ち合わせもなく人に出会うのは、年に数回あるかないかである。

場所がらが寺でもあるし、だから余計に「ご縁」を感じてしまう。そういえば、御修法の行われる灌頂院の「灌頂」も、大日如来との「結縁」を行うための儀式である。この宇宙は「縁起」によって成り立っているとはお釈迦様の創見だ。このご縁ということをつらつら考えてみるに、非常に奥深いものを感じる。なぜなら「ご縁」のひとことで、「自己」を中心とした全宇宙のネットワークが、即座に立ち上がるからである。その網の目のどの部分も、この宇宙が成り立つためには欠かせない。

ご縁には大別すると二種類あって、一つが「出会う」であり、もう一つが「出会わない」である。ともすれば前者ばかりが特化されがちであるが、後者の重要度は前者におさおさ劣らない。なぜなら、ぼくは今生きているが、それは事故や病気に「出会わなかった」からである。

また「出会う」を顕在意識とすれば、「出会わない」は潜在意識に相当しよう。そのボー大な可能性の中から、氷山の一角のように浮かんでくるのが「出会い」というものだから。そう考えると、一つひとつの「出会い」の意味深さが思いやられる。

この度の東寺訪問は、そういうことを考えさせられる機会だった。そういえば、弘法大師空海も、千載一遇のチャンスをとらえて入唐し、長安青龍寺の恵果阿闍梨から密教を伝授されたのである。お大師様は「すべて想定内だよ」と言われるかも知れないが。

Dscn5602_4 講堂でおみくじを引いたりしているうちに、結界の近くに人群が出来はじめている。一時半丁度に二列に並んだ僧侶の行列が寺務所から現れ、道俗の男女がこぞって「南無大師遍照金剛」を唱和する。ぼくもSさん空味さんとともに合掌した。

それほど寒い日ではなかったはずだけど、帰りのバスに乗って河原町へ着く頃、鼻水が出はじめ、くしゃみが止まらなくなってきた。熱もあるのか、妙な寒気がする。河原町の「月ヶ瀬」本店に入って、粟ぜんざい(美味である)を食べたが、体が温もらない。追加でお汁粉(美味である)を頼み、お腹は満たされたが、まだ寒かった。明らかに風邪を引きかけている。しかし、それは悪いことではなく、この冬を乗り切るための「免疫」をお大師様に頂いたのだと思う。風邪の最大の効用はデトックスなのだから。

   

              風海衛門

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文化遺産学とは何か

最近イングランドK大学モーグリー校の教授で、日本文化に詳しいジョン・ケアレ=スミス氏の講演を聴く機会がありました。その内容の大半は概説的であり、特に目新しい発見はありませんでしたが、「文化遺産学」というものについてのケ氏の見解はまさに一掬すべき所ありと思われたので、以下に紹介してみます。

ケ氏は先ず、日本における文化遺産学の創始者(ファウンダー)として、高橋隆博氏(なにわ大阪文化遺産学研究センター長、20101月現在)の、

「文化遺産学とは、文化遺産とは何かについて考え続ける学問である」

という言葉を引用します。この一見トートロジーみたいな発言の裏には、一体いかなる意味が込められているのか。ケ氏はこう言うんですね。「~とは何かを考える」とは、それが何であるのか、まだ誰にも分かっていない原初の状態にあるということである。そして高橋氏の意図は、考えるという営みを通じて、新たなものを創り出していくことにあるのだ、と。

現在既存の学問としてあるものは、資料群、方法、立論形式など、ほぼ定式化されているといっていいじゃないですか。安定した成果を継続して生み出すには都合がいいかも知れないけど、これって果たして真に新しい発見を促すことができますか。

文化遺産とは、ある決まった価値の体系ではない。それは新しい視点と方法とによって、常に創造し続けられなくてはならないもの。だからこそ、「何が文化遺産か」ではなく、「文化遺産とは何か」という文法で問われねばならないのです。前者の問いでは、答えはすでに決まっていて、学者の仕事はそれを見つけることに絞られてしまう。しかし、「何が」ではなく、「とは何か」と問うことで、従来全く無視されてきたものに、新しい光を投げかけることが可能となるんですね。これは世界に対する積極的なアクションなのです。誰もがその価値を認めるものだけが学術的で、市井の雰囲気や人と人との関わり、また一見学術的と見えない文物が、どうして閑却されなくてはならないんですか。普通の人が見逃しているところに目を向け、そこに価値を見出す行為こそ、真に学術的な営みなのではないですか。

 これに加えて、「考える」ことそれ自体に注目したのが、ケ氏の主張のもう一つの特徴です。ケ氏は英国人的皮肉を交えて、ものを考えることを職業にしているはずの研究者の多くが、本当にはものを考えていないのではないか、と吼えます。既存の資料を使い(新発見であっても、それが従来の「資料」という枠組みにはいるならば、それは既存のものの新種に過ぎない)、慣れ親しんだ方法で論じ、定式化されたプレゼンテーションを行っていて、どこに「考える」余地があるのか。考えるとは、ともすれば自らの地盤をも揺るがそうとする知の暴走であるべきだ。それができて、はじめて新たな創造と発見がもたらされる。

こうしてみると文化遺産学は、文物の発見、資料の「創造」、思考の改革を通じて、人を教育していこうとする学問であるように思われます。継承者無くして文化は伝達されない。遺跡や書物、絵画彫刻建築など、文化財としていくら立派なものがあろうと、それを継承してゆく人がいなくては、そのモノ自体に何の価値があろうか。文化遺産学とは、先人の残した偉大な文化に敬意を払い、正しく継承し、しかしそこに止まることなく、新たなモノを創造してゆく人間の育成を行う学問である。だからこそ、高橋氏は「~とは何かを考える」ではなく「~とは何かを考え続ける」と言ったんじゃないですか。それがケ氏の結論でもある。しかし、こうしてまとめてみると、残念、ケ氏の議論はごく当たり前のことをいったまでで、さほど目新しいことではないようにも思われますね。

             風海之介 識     

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聖地見物 序

  今時、パワースポットの探訪記など巷にあふれかえっている。詳細な地図つきで、森羅万象神社仏閣、有名無名の仏像神像、どこそこの山のエネルギーが強いとか、なにがしの巌に力を感じるなど、情報はいくらでもある。

Dscn5100_6  しかし、そのエネルギーなるものは、一体何であるのか。その辺の理解があいまいだ。また、それらの力に触れることで、人はどういう変化を起こすのか。癒される元気になる、運が良くなる。でもそれでは、あたかも聖地をサプリメントとして「消費」しているようで、気にかかる。聖地はもっと神聖なものであるべきではないのか。

もっとも、結論を言えば、「聖地はサプリメント」でいいのだと思う。いいのだが、ビタミン類などでも体調に合わせて摂らなくてはあまり効果が期待できないように、パワースポットのパワーもそれがいかなる種類のものなのか、正しく把握して服用する必要があるのではないだろうか。

薬の薬効を知るために手っ取り早いのは、自らそれを飲んでみることである。三皇の一人神農氏はそこら辺にある草をすべて食べてみて、毒と薬を見分けたというし、ホメオパシーの創始者ハーネマンも自らの心と体を実験台にして、幾つものレメディを発見していった。

Dscn5167_4 ぼくたちも「聖地とは本当は何か」という疑問を解くために、同じことをしてみようと思う。すなわち各地の聖地霊場を見物し、そこに立って空気に触れることで、心身にいかなる影響を及ぼすのか、観察してみたいのである。この方法がうまく行くかどうかは分からない。単なる見物記になるだけかもしれない。しかし、こうした問題意識を持つだけでも、ただ漠然と「癒されたい」といった気持ちで出かけるのとは違って、結果はともあれその過程はずいぶん変わるのではないかと思う。

聖地の心身に与える影響について、一つの仮説を提示するならば、それはその力に触れることで「現実を変える」可能性が生まれるのではないか、ということである。もっといえば、「今自分が生きていて、現実と思われている現象世界のあり方を変える力を、聖地は持っているのではないか」ということである。この仮定からぼくたちの聖地見物は始まることになる。

              風海之介 識

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西宮戎のたいやき

(拍子木)
黒子: 東西~
      「西宮戎邂逅鯛焼(えべっさんおうせのたいやき)」
       戎神社境内の段。あい勤めまする太夫、竹本海太夫、
     三味線、鶴沢禿丸。
    東西~
(拍子木)

Dscn5574_3♪茅渟(ちぬ)の海の藻に照る月影の~
さてここは西宮のえべっさん。
今日は十日戎です。

空: さすが、えべっさん。人が多いね。
   毎年来てるけど入場制限は初めてや。
   日曜日の夕方やからかな。

風: うん。屋台もたくさん出ててすごいね。
   広島焼き、身代わりひょうたん、ケバブ、ポテトルネード…。
    あそこのたいやき屋は面白いよ。
空: へえー。たいやきでお店をデコレーションしてるんだ。

――と見れば、たいやきがひもでつるされぶらさがり、鯛で客釣る。
客を呼ぶのは商売繁昌、えびす様の福の笹。本殿前には竹に
松の逆さ門松。
人波にもまれ、流され二人はようやく参拝を終え―
本殿の西側に、

風: これは何?鯛がぶらさがってるよ。
空: 御掛鯛だよ。面白いでしょ。干した鯛を二匹ずつ縄でつるし
   て奉納するんだって。
   江戸時代の文化5年(1908年)に兵庫津の塩物問屋から
   奉献があったのが始まりらしいよ。
風: さっきのたいやき屋のデコレーションに似てるな。これを
   真似たのかね。
   あのたいやき屋に行ってみよう。

――さて、最前のたいやき屋。亭主はたいやきを朱に染めて、
お飾り造りの真最中。

風: すみません。
   たいやきの飾りは、御掛鯛を真似たんですよね。
亭: おかけだい?何だいそれは。
空: 西宮神社に奉納されている干鯛が、これにそっくりなんです。
亭: それは知らんかった。また後で見に行くわ。

――何たる偶然。これも西宮戎のなせる技。

鯛と言えば西宮とは、『阿弥陀池』でも「西宮をかわした」とか
言う地口(じぐち)。
そもそも西宮の御前澳(おまえのおき)で蛭子三郎が釣り初めて、
世間で食べるようになったとは、名所図会の伝えるところ。
今の「たい」はクリーム、小豆、抹茶にきなこと甘口なれど、
恵比須まわしの鯛釣りが、鉄板の上で焼かれて鯛になる。
西宮、戎、たいやきの不思議なご縁なり。

                     空味

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口上

ゲニウス・ロキのブログ、思考の実験室を開設しました。

室長は則殆堂空味(くみ)さん、

研究員は宇則齋風海(ふみ)さんです。

発表しますのは、日記、エッセイ、感想文、

雑然、漠然、文字以前、

とりとめのない莫迦咄。

そのかみ孔子は言いました。

「学びて思わざれば則ち罔く、思いて学ばざれば則ち殆し」と。

開き直って言いましょう。

あやうくってもいいんだよ。

愉しかったらいいんだよ。

ディレッタントでいいんだよ。

さて、タイトル「ゲニウス・ロキ」の縁起はと申しますと、

今を去ること●年前、空味さんが大学院の入試面接で内田樹先生に言われた。

「名所をテーマに研究するんだったら〈ゲニウス・ロキ〉を調べてみてはどうだい」

げにうすろきって何だ。

「下似臼櫓記」?…江戸時代の書物か?

「地霊のことだよ。土地がもつ固有の力が名所にどう関わっているか考えてみたら」

と、先生は言われたが、当時志していたのは正統的な日本史研究だったから、

先生の意図にピンとこないまま年月が過ぎ、

「げにうすろき」という言葉の響きだけが耳に残った。

今、ふと意識の底から浮かび上がったこの言葉を、わしらのブログのタイトルにしてみました。

サイバー空間にもし「精霊(ゲニウス)」ありとせば、請う、このブログをかりて現成せよ。

                       空味と風海しるす

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