読書の秋

  何冊かの本を並行して読んでいると、内容が混ざり合って分からなくなる、ということはない。むしろ、様々な声がポリフォニーとなって、一体感を持ち出してくるときがある。

  ただ、書いてある内容があまりにも印象的な場合、和音が崩れて、例えばラッパの音だけが突出して響いているといった事態に近いことが起こる。

  先日、保江邦夫『合気の道 武道の先に見えたもの』(海鳴社、2012)を読んだが、まさにそんな本であった。筆者は実績のある物理学者であり、「冠光寺眞法」という合気系武道の創始者でもある。大東流の佐川幸義の合気を受け継ぎ、合気(保江氏の用語では「愛魂」と書いて「あいき」と読む)とは宇宙の愛であるという合氣道特有の視点を推し進めた技術体系を教えているらしい。

  そういう人が、武道の先に何を見たのか、非常に気になって本書を繙いてみると、いろいろと神秘体験などが描かれ、最後に、合気によって人の身体をコントロールするのは、UFOを操縦するための練習であった、という衝撃の発見が明かされる。

  何でも、UFOの各部品は独立した意識を持っており、それらすべてと心を通わせ一体とならなくては、コントロールができないというのである。そのために、人を相手に投げたり転ばしたりして、練習をするという訳である。

  筆者ご自身、「まともな皆さんからは変人扱いされること必至」(おわりに)と書いているように、確かにとんでもない結論である。分類するとしたら、確実にトンデモ本であろう。しかし、ぼくの中ではやはりどこかに、そういうことが事実であったら面白いだろうなという思いがあり、少年の頃『ドラえもん』やSF映画など、ファンタジーの世界に憧れた焼けぼっくいが、またぞろ燻りはじめるのである。

  風海

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

再会の季節

  先日、京都市内の某所にて、台湾S大学のZ副教授とお会いした。Z先生とは、先生が日本に留学されていたとき、丁度ぼくもその研究室に遊びに行っており、約三年間親しく交際していただいて以来のご縁である。先生は、大学の授業の一環で、学生を連れて日本文化の学習のために京都S大学にいらしたのである。

  実は去年も同じ日程で京都へ来られていたのであるが、電話をいただいた時すでに予定が入っていてお会いできなかったので、一年越しで、三年ぶりの再会となった(一体ぼくには、いつも暇なくせに、こういうことがあるときだけ、やたらと予定が詰まってしまうという、悪い癖があるのだ)。

  Z先生の日本文化論の授業は一学年のうち八割以上が履修するという超人気科目であるが、ただそのせいで別の先生の授業に閑古鳥が鳴くため、時間をずらして遅くしなければならないという羽目にもなっているという。先生は、もう歳だから、とおっしゃるが、日本留学中に始まった髪の毛の蒸発もピタッと止り、顔つきも至ってお元気そうだった。この度、少し短い時間ではあったが、いろいろお話ができてよかったと思う。

  Z先生に限らず、これからいろいろな方に再会し、久闊を叙するのみならず、新しい関係へと発展していくように動いて行きたいものである。

    風海

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

オリンピック、メダルの意義

  今行われているロンドン・オリンピックを毎日見ている。これまでの十数年間、下宿にテレビを置いていなかったので、その間ほとんどオリンピック観戦の習慣がなかったが、最近ようやくテレビがうちに来たため、朝の連続ドラマから夕刻のバラエティ番組まで、幅広い番組を見ている。

  ぼんやり気を抜いて、座っているだけで、ほとんど頭を使わずに楽しい時間が流れるというのが、テレビの恐ろしいところである。一億総白痴化とか、百害あって一利なしとか言われるテレビである。付き合い方を間違えると本当に廃用症候群で脳軟化症になりかねないから注意が必要だ。

  その論件に関しては、いずれ改めて論じるとして、今回はオリンピックを見ていて気付いたことなどを記す。

  ある競技が始まる前に、ランキングトップクラスの選手が、薬物疑惑か何かで出場取りやめになるという事件があった。そのニュースを伝えた実況のアナウンサーが、「これで○○(日本選手の名前)はまた一歩金メダルに近づいた」という意味のことを言った。

  ライバルがいなくなれば、その分メダル獲得が有利になるのは間違いない。しかし、本当にそれでいいのか。そのアナウンサーはよほどメダルに執着していると見えて、二度三度同じ意味のことを繰り返した。解説の元競技者が、「いや、本人はライバルと勝負して勝ちたいと思っているでしょうから、複雑な心境じゃないですか」と、やんわりたしなめていたが、実況のアナウンサーに通じたかどうかは分からない。

  オリンピックなど大きなスポーツイベントがあると、どうしてもメダル獲得が気になるが、競技をする者にとってみれば、第一は自分の実力をいかんなく発揮することであり、メダル云々は目標であり、結果であって、決して目的ではないと思う。この日に一番のパフォーマンスを出そうと練習してきた者ならば、ライバルの棄権や脱落は歓迎できるものではあるまい。

  本気で勝負して、競り勝ってこそ、メダルに意味があるのだと思う。今大会では、バドミントン競技で無気力試合のため有力な何組かが失格になったが、選手は素直に喜んだだろうか。

     風海

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

文楽について

  橋下大阪市長が文楽を鑑賞し、技芸員の方々との会談で、守るべき文化財であることは分かったが、ラストにぐっとくるものがなかった、というような論評をし、これを何とかできない限り金は出せない、と言ったそうである。

  この橋下発言について、賛否両論あると思うが、ぼくはどうも根本がおかしいと感じている。橋下さんは市長であり、市長と言えば行政のトップであって職分は政治家だろう。政治家は施政方針の決定や賄賂をもらって私腹を肥やすのが仕事であり、文化や芸能について論評を行うことではない。

  行ってはいけないというのではない。市長として発言するのであれば、それは全て政治的な発言となるわけで、そうでなければ正式な劇評論ではなく、ただの感想のはずである。劇評論にはその筋の専門家がいて、彼らに任せておけばいいのである。どこそこ大学の文学部教授とか、文芸評論家とか劇評論かとか、いろいろ居そうではないか。そういった連中に意見を求めれば、「専門家」として、正しく文楽を批評してくれると思う。

  それを受けて、文楽を評価するというのが政治家としての在り方で、橋下氏個人の見解を政治家としての発現にかぶせるのは、この際ルール違反ではないか。そうではなく、もはや問答無用で文楽をつぶそうというのであれば、「ぐっとくるものがない」程度の胡乱な言い方ではだれも納得しないだろう。もっと厳密に学問的な批評をしてもらわなくては収まらない。

  つまり、橋下氏の発言は職責を超えた単なる感想であり、政治的な効力は全くないと思う。文楽側の対応は、いたずらに軽挙妄動して右往左往するのではなく、何百年続いてきた確固とした伝統芸能である、というようにどっしり構えていればいいだろう。心配しなくても文楽はつぶれない。そういう意味では、「守るべき文化財」という言い方も間違っているのではないか。

  文楽は、日本が誇る世界の文化的共通貨幣である。新劇や映画は、まだ世界のメジャーをうならせるには程遠いけれど、文楽は堂々の横綱相撲、外国のどんな文化人でも頭を下げるという代物である。ロラン・バルトの『象徴の帝国』は、文楽を見た哲学者の驚きが発端となって出来上がった本である。

  どうしても、金が大事というのなら、金では買えないほどのものをあえてつぶすことで生じる損失を計上してみればいい。後世の人から、世界レベルの日本文化を一つ奪おうというのである。そうまでして微々たるお金に執着する橋下氏が、その多大な負債に堪え切れるというのであれば、ためしに潰してみるのも一興かもしれないが。

    風海

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

恐るべきだったのは・・・(承前)

  前回の記事で、バイキングで食べすぎたという話を書いた。しかし、問題は量ではなかったかもしれないことが判明したのである。

  先日、友人夫妻と西宮市某所にある韓国料理屋へ行った。客のほとんどが女性客という店で、料理は野菜が中心であり、油もあまり使っていなかった。そこでぼくは、またぞろ少しだけ食べすぎたのだったが、今度は大丈夫だったのである。

  結局、点心の中身の肉と油(脂)が問題だったのではないかと思う。このところ極力肉をやめて食べる量自体も減らしてきているので、味にも成分にも敏感になっている。らしい。

  ともあれ、低価格で大量に食べようという発想をやめるべきなのだろう。そういう形態がこよなく好きだという人に文句を言うつもりはないが、自分のライフスタイルの中から、そういう体質に合わない食事を排除することは必要と思う。

  しかし、以前はビアガーデンに行って焼肉をつまみながら冷えたビールを流し込んで平気だったことを思えば、ずいぶん軟弱な体になったものだと思う。合氣道のY先生は常々、一食抜けばその分だけ生き物を殺さなかったことになるから、陰徳になると言われている。

  以前牛乳(乳製品)に関する記事を書いたら、最近ショックを受けたらしい人から否定的なコメントをもらったが、その悪意に満ちた文章から察するに、こういった問題はかなり微妙であるということがわかる。個人の趣味嗜好と、経済活動、そして生命維持、生命倫理などがからまっているのが「食」の世界である。

  本当に恐る(畏る)べきなのは、いかなる食材であれ、他者の生命を体内に取り込んでいるという事実なのかもしれない。月並みであるが、感謝と懺悔と思いやり、これを想起しながら有難くいただくということが重要だろうと思う。バイキング形式のレストランは、ぼくにとってこの三者を想起しにくい。だから行かない方がいいのであろう。あくまでもぼく個人に限ってであるが。

   風海

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

バイキング恐るべし

  先日街に出た折、丁度時分だったので大阪市内にある某商業ビルのレストラン街に行った。休日であり、ものすごい人出でごったがえしており、どこも行列ができている。できていない店はなんとなくまずそうに思えるから不思議である。で、そこにあった中華料理のバイキングに、連れが行こうというので行ってみた。

  点心を中心に色々な料理が取り放題で、目移りがする。しかし、食べ放題は以前ひどい目に遭っているから、今度は無事に帰ろうと思って、極力、量を加減しながら食べた。つもりであった。

  しかし、最近は食事の量を以前よりも減らして、油ものなども取らないようにしていたので、そこへギトギトの中華を入れたものだから、結果は撃沈であった。席を立って帰り始めたころから強烈な眠気が差し始め、電車の中ではほぼ寝ていた。

  それだけでも足らず、うちに帰って午後いっぱい再起不能であった。食べた分量というよりも、体感では油にやられたという気がする。とはいえ、やはりバイキング形式というのは、心理的にどうも貧乏性を助長するところがあって、つい要らないものまでとってしまうのだ。

  また、ぼくは好奇心派だから、気になるものがあると、味を聞いて見なくては収まらないのである。結果的に少し食べすぎることになる。ここで悠然と構えて、腹八分目で抑えることが出来れば、それは大人(たいじん)といえる。

  まあ、今回は端無くもぼくの内臓機能の低下が顕になったのであるが、周りでは女性や年配の方もいて、ぼくよりもよほどたくさん食べていた。そういう頑健な胃腸を持っていた時代が懐かしくもある。しかし、バイキングというのは、本家のバイキングもそうだったであろうように、殺気立った人たちが縦横無尽に移動するので、どうも落ち着かないことおびただしい。

  そういう雰囲気の中で食事をするというのも、精神にかける負担が大きくなるのであろう。そのうち小金持ちになったら、ちゃんとウエイターが案内してくれて、値段のついていない、産地と銘柄だけのワインリストが差し出されるような、そういうお店に行くほかなさそうである。それなら食べすぎることも、心をかき乱されることもなさそうであるから。

       風海

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

身体AとB

  先日少し疲れ気味であったとき、少し奇妙なことがあった。頭は重くて、胃のあたりが少し気持ち悪い感じであり、普通こういう時道を歩いていると、身体が重くて足を引きずるようになるはずである。
  ところが、不調だと思いながらも、足は楽々と前に進み、腰のあたりを誰かに押してもらっているような軽さがあった。

  これは一体何だろう。歩きながら不思議な気分になっていた。心と身体が相反するということはたまにはあるが、体の状態に二重性が同時に起こるというのはどうしたことか。一方で不調を感じつつ、一方で運動行為が絶好調というのだから、やはり奇妙である。

  もしかしたら、身体にはAとBの二つの領域が存在し、どちらかがおかしくなってもどちらかが生きているのではないか。あるいは、心と身体を明確に分けることができないように、物質に近い領域の身体と、非物質的な身体があり、通常どちらかが優先になっているのだが、その時はたまたまどちらもオンの状態になっていたのだろうか。

  これが意識的に使えると便利だと思う。そうなれば、具合の悪い方を休ませて、いい方を使って活動するというような技が使えるのではないかと思うのである。しばらく研究してみたい。

     風海

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

電磁波

  先ごろ「Bhado」(美波動)という電磁波対策グッズを教えてもらって購入した。これは、キャッシュカード大(商品の種類によって形状や大きさは異なる)のアルミ合金版で、ちょっと見たところ単なるプレートである。
  何でも物質の斥力の原理を用い、正のエントロピーをもつエネルギーを中和または緩和し有益なエネルギーに変えるというふれこみである。

  パソコンや携帯電話の電磁波を防ぎ、分電盤や車のエンジンに貼り付けると、電気代や燃費が安くなるというのである。その他身に着けると顕著な効果として、体温が高くなるとか電磁波過敏症が治まるとか、あるいは煙草やコーヒーや食品の味がまろやかになるという。

  コーヒーで試したところ、確かにえぐみがなくなった。知人が飲んでいたインスタントコーヒーを上に置くと、粉っぽさが消えて苦味が減ったといわれた。

  この製品がどういう方法で作られているのか皆目わからないが、何かの効果らしきものはあるらしい。分電盤に貼ってみると、ある部屋のずっと暗かった電気が明るくなった。あるいは何か他の要因だろうか。

  製作者は広島に本拠を持つたぶん中小企業で、川上さんという社長の顔が印象的だった。額に白毫相のような大きなイボ?がある。これは商品開発をし始めてから盛り上がってきたものだそうで、吉相だろう。ちょっと異様な感じもしないではないけれど、歴史的にも偉人はどこか常人と違う相を持っている(釈迦、孔子、劉邦など。朱元璋に至ってはお化けのような肖像画が残っている)。

  件の知人には、「えっ、こんなものに○千円も投じたのか」と驚かれたが、ぼくは少年の頃から孤狸庵先生遠藤周作の読者である。好奇心は永遠なり。何が悪いか。

     風海

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

杖の体験

  杖は、「ツエ」であり、この場合「ジョウ」とは読まない。合氣道には杖技があって、昇段試験には剣技とともに必須項目である。だからぼくもケンやジョウはしばしば振っているが、「つえ」を使うことはほとんどない。

  というよりも、これまで一度もなかったといっていい。それが今回介護ヘルパー2級の講座を受けてみて、授業の一環で肢体不自由な人の役をして、杖を持ってみて驚いた。ルールは左半身が利かないという設定で、杖を持ち介添えの人とともに教室を出て階段を上がって下りてくるというものである。

  本当に左が使えないと思って、左足にほとんど重みをかけまいとして歩くと、とんでもなく右への負担がかかる。階段まで行って昇って下りてくるだけで、右手右足の筋力の限界であった。本当に身体がゆがむかと思ったくらいである。

  そうやって歩いていると、「迫真の演技だね」と言う人がいたが、ほっといてくれ。この場合演技ではなかった。左が使えないという設定をリアルに表現すると、本当にあのぎくしゃくした歩き方になってしまうのである。

  自分でやってみてよく分かった。杖は実にしんどいものである。杖を突いてようよう歩いているお年寄りなどたまに見かけるが(父方の祖母もそういう人だった)、これからはできれば手を貸すなどしてあげたいと思う。

      風海

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

あるシンポジウム(宴)

  先日、アレクサンドル・シマノフ氏のお宅にお邪魔した。シマノフと言えば、亡命ポーランド貴族の末葉で、1920年代セーヌの右岸において集成古美術の収集と歴史文献の渉猟に明け暮れたディレッタント、セルゲイ・シマノフの孫であり、祖父の遺志を引き継いで歴史を専門として(古美術品は借金のカタに売り払われた)、『1661年神話』などの著作が有名(?)である。奥さんは伊予の人。しばらく某大学図書館にお勤めされていたが、現在はフリーとなって韓国香港台湾などアジアの映画を研究されている。

   シマノフ家はこの度、T市にある瀟洒なお屋敷街に引っ越しをされた。裏はゴルフ場のある山で、よく風が通る間取りであり、一日中さまざまな鳥の声が聞こえるといううらやましい環境である。引っ越し完了して一月ばかりらしいが、書斎には未開封の段ボール箱が山脈をなしていた。研究者の宿命である。別の知り合いは、豪邸を建てたが、親子二代にわたる本のため、家の半分は書庫という人もいる。シマノフ氏はそこまでではないが、やはりすさまじい本に埋もれて、あわやおぼれそうになっていた。

  それはさておき。

  当日のお客は、ぼくと空味さんとK川さんの三人であった。K川さんは岡山の出だが、実家はもと神戸で貿易商をされていて、名家であった。曾祖父に当たる方が、借金の保証人などになって没落したとおっしゃるが、貴族は没落したときの、あの黄昏の空の美しさのようなたたずまいがいいのである。

  ボルドーのワインを飲みながら、ぼくは思い出していた。シマノフとはじめて会ったのは、1678年くらいであったか。その頃はシマノフとか風海ではなく、フランソワ・ジュリアンとか、ミシェル・ド・ランポンタンとか、そういう名前を名乗っていた。場所は、ルメルヴィル夫人のサロンである。夜会が終わり、居残ったぼくたちは、相手がなぜすぐに帰らないのだろうかと訝りあいながら何となく居続け、そして最後にその秘密を知ってからは意気投合したのである。
  その翌日の昼に、ばつの悪そうなルメルヴィル夫人を囲んでとった昼食のテーブルワインが、この度飲んだワインの味とそっくりであったのだ。

  ワインを飲みながら、そういう綺想がわいてきた。本当か、と言われると自信はないけれど、当たらずといえども遠からずではないかと思う。

  ところで、最近の物理学では、時間と空間は同じものであるという説があるらしいが、確かに楽しい空間というのは時間と一体であり、そして一瞬にして過ぎてゆく。アントニオ・サリエリのピアノ曲など聞きながら、皇室のゴシップなど話し合っているうちに時は流れ、そろそろ失礼しなくては、と思って時計を見ると、すでに家へ帰りついていなくてはならない時間であったのだ。

  シマノフご夫妻、K川さん、ありがとうございました。また近いうちにお目にかかりましょう。

   風海

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

«無限責任というもの