跳び受け身

  このところいろいろ掛け違って稽古をしていなかったが、水曜日と今日道場へ行った。2級の技に前受身が出てくるので、その練習をということで、合氣道の時間ほぼ丸々費やして受け身ばかりやっていたのだが、途中から様子が変わり、こういうことも出来るよということで、跳び受け身の練習になった。

  跳び受け身というのは、文字通り跳んでから受け身をするのである。練習では、二人くらいが体を丸めているところに飛び込んで、向こう側へ受け身をするというやり方をする。上に飛ぶのではなく、水平に前へ向かって飛び込むのだ。初め一人から始めて、だんだん人数を増やすのであるが、最高は七人くらい飛んだという話を聞いたことがある。

  今日は二人までであったが、やってみると案外出来るものである。拳をついてからすぐに身体を丸めないと、背中を打ってしまったりする。コツはうんと前方に飛び込むことであろう。しかし、どういう状況でこういう受け身が必要になるかというと、素通りで足を刈られたり、誰かが前に転がってきたような場面であろうか。

  そのご、小手下しで投げられて、手を放してもらえなかった場合の受け身の練習も行った。同じようにうずくまってもらい、背中に手を置いて、その手を動かさないようにして向こうへ一回転するのである。すると、はじめは例外なく背中から落ちる。それを徐々に慣らしていき、丸まって普通に起き上れるところまで持っていくのである。

  こういう受け身の練習は普段しないので、大変面白かった。今日はほとんど技の練習という感じではなかったのに、時間が早く過ぎた氣がした。もう当分やらないだろうけれど、七人は無理でも三人くらいは飛べるように、自分一人で練習しておこうかと思う。

  風海

金環日蝕

  5月22日朝7時30分ごろ、ぼくの住んでいる地域でも金環日蝕が見られた。目を傷つけるので、絶対に裸眼で見ないようにと、あちこちで注意を促していたので、前日にグラスを買いに行くと、どこも見事に売り切れであった。まだあるだろうと思っていたのが甘かったのだ。そして当日、テレビをつけると一大イベントのようにどの局も大騒ぎしており、こんな大事になっているのなら、もっと早く準備をしておくべきだったが後悔先に立たず。

  仕方なく、裸眼で見た。というか、ぼくはよく太陽を見ているので、全く抵抗なく眺めることができた。しかし、よほど注意が行き届いていたと見えて、近くにいた近所の子供が心配してグラスを貸してくれたのだった。
 

  黒いグラス越しに見ると、輪の部分がオレンジ色に光って見え、全体が白っぽい色で見えていた裸眼の時とは違って、実に幻想的な風景であった。やはりグラスを手に入れておけばよかったと、この時本気で思ったのである。

  中国の歴史書には、よく「日これを食するあり」という日蝕の記事が出てくる。天人相関的に不吉な前触れで、そのごあまりいい記述は続かないのがふつうである。世間では天文ショーということでお祭り騒ぎになっているが、数百年前なら政府が厳戒態勢でも敷きかねないような、大事件の前触れなのである。

  そして昔の人は何の根拠や確信もなく、日蝕などの天変を恐れたりはしない。やはり何らかの確証があって日蝕を不吉な前触れととらえているのであろう。ぼくの感じたのは、何やら正体不明の強いエネルギーが、前日から当日にかけて動いていたということである。前の晩妙な「腹さわぎ」(としかいいようがない。といって普通の腹痛とかそういったものとも違う感覚だった)を感じて一時寝ることができなくなり、しばらく苦しんでいたし、翌日日蝕を見物してしばらくたつと、突如ものすごい気怠さに襲われて立っていられなくなった。それで仕方なく眠ったのだが、夢の中で猛烈な眠気に襲われるという意味不明の事態に陥ったのだった。

  この日触によって、何がどうなるのかはわからない。しかし、何かがどうにかなりそうなエネルギーが動いたことは間違いないと思う。みなさま、どうか防災意識を持って、まさかの事態に対処できる準備をなさっておいてください。

     風海

 

 

 

 

いんたあみっしょん

  久々に論文を読んだ。論文を読むことが日常だった時期もあったから、かなりの激変である。まあ、論文というものは読むのも書くのも心身の状態に良い影響を及ぼさないことが多いから、現在は健康的に過ごしているともいえるだろう。

  今回読んだのは、嶋中博章「17世紀フランスの回想録(メモワール)」(『関学西洋史論集』第35号、2012.3)である。

  何故この論文を手に取ったかは、この際どうでもいい。何かの必要あって読んだわけではない。だから、どこで放り出しても良かったのであるが、最初から最後まで一気に通読した。なぜなら、文章がうまかったからである。論文を読んでこういう具合に愉しく読めることはあまりない。だから、もしかしたら、この文章は、論文に偽装したエッセイなのかもしれない。

  内容は、17世紀フランスにおける回想録の概説である。ただ、普通の概説のように、こういう作者がこういうことを書き、このような趨勢でした、というような展開にはならず、いつの間にか、歴史記述と文学的技巧についてのお話となる。
  この展開のさせ方は、魔術的に巧みである。歴史論文と文学的技巧が矛盾するものではないという実例として書かれたような文章で、すんなりと議論に入っていける。無論専門家は異論もあるだろうが、よほど「巧く」書かないと、クリストファー・コロンブスが報告書作成時に下手を打って、新大陸に名が文章の巧かったアメリゴ・ヴェスプッチからとられてしまったかのような事態となるに違いない。

  内容とはあまり関係のないどうでもいい話だが、冒頭から二ページ目に、懐かしいプルーストのヴィルパリジ夫人に再会するとは思わなかった。ぼくが夫人のサロンに出入りしていたのは、一体いつのことであろうか(語り手である「私」の滑稽なような活躍を愉しんでいたのである)。
 

  あの重厚長大な物語が、小説として読むに足るものであったのは、やはり文学的技巧のなせる技であったのだろう。歴史は事実が大切であり、真実を語ればそれで足りると思っているならば、なおのこと文学的技巧は必要である。回想録が今に残ったのは読者を獲得したからであり、読む人がいなければ、歴史の渦に消え去っていたに違いない。

  最後に、嶋中氏の文章術を少し解説しておく。氏は、引用がうまいのだ。自説をしゃべりながら、読者が疑問を抱きそうになる寸前で誰かの言葉を引用する。すると、言葉の温度が変わって、すんなり通り過ぎてしまうのである。ただこれは、相当な「技」の使い手でなければうまくいかないので、初心者は真似をしない方が安全であろう。

   風海

輝ける島―獅子国紀行③

 スリランカというのはインドの南端に位置する島国で、ちょうど中国に対する台湾のような位置関係だから、台湾人が中国語を話すようにインド語(ヒンディー語)を話すかというと、そうではない。人口は八割がシンハラ人、二割がタミル人であり、使用言語はシンハラ語とタミル語である。

 タミル語は、大野晋先生が日本語の期限として比定した南インドの言語である。文法単語ともに日本語に似ているということであるが(大野晋『日本語の起源』)、今度の旅行ではそれらしい言葉を聞くことはなかった。一方、シンハラ語が、どういう系統の言語であるか不勉強にして知らない。こちらの方はよく耳にし、テレビでも聞いた。文字はジャガイモのような形の表音文字で、サンスクリットやアラビア語などの文字がくるっと丸まったような感じである。だからといって、それらと同系統であるかは不明で、テレビのアナウンサーの話す言葉は、どこか韓国語のような響きであった。

 もしかして、韓国語の起源はシンハラ語ではないか。そんな妄想がふと浮かぶ。多分99%妄想だが、根拠がないわけではない。ヴィマーラ師のお寺および本場キャンディの劇場で見た「キャンディダンス」が、韓国の伝統舞踊「サムルノリ」に、あらゆる点で酷似していたからだ。

 この文章は、あちこち前後しながら(意識の流れ重視)、蛇行して進むことにしてあるので、キャンディダンスについては今は書かない。ただ、男のダンサーが上のとがった丸い帽子をかぶっており、その先端についた紐を自ら旋回しながらくるくる回してゆく、その踊り方と、首から下げて両側からたたく太鼓、時折入るシンバル(ドラ)のリズムが、やはりサムルノリに似ている部分がある。

 無論全てが、ではない。ただ、その構成要素の大きなものに、かなりの類似が認められるので、もし無関係だったとしても比較してみると面白いと思う。韓国の方は、次第に日本の雅楽のような雰囲気も帯びているので、そこから日本は一息であるが、スリランカは少々遠い。キャンディダンスの太鼓の音も、はじめはサムルノリに聞こえていたが、聴いているうちにだんだんと木々が深くなってゆく。派手な色の鳥が飛び始め、呪術師がリズムに乗って踊り始める。正確に刻まれる太鼓のリズムによって、トランスは次第に深まり、背景に隠れていた精霊たちの姿が浮かび上がってくる。そういう力が、キャンディダンスの音楽にはあった。

 ・・・以下次項。

   風海

輝ける島―獅子国紀行② 序章そのⅡ

  旅に出かけたところで、いきなり帰ってくる旅行記というのが存在するのかどうかわからないが、ともあれこの文章の場所は日本である。

  弟子の別荘で三里に灸をすえたり、位の高い女性に翻弄された顛末を語って無常観を表現したりといった手続きなしに、旅に出るところから書き始めて違和感がないのが現代の旅行記だが、もっと言えばこの文章は旅行の備忘録的なものですらない。

  備忘録として優れているのは、なんといってもミシェル・ド・モンテーニュ殿のイタリア旅行記だろう。原文を読んだことはないが、堀田さんの抄録を眺めただけでも、その詳細さ、目の付け所の面白さがうかがえる。そういうものが書きたいなと思って、ヒコーキの中でノートを付け始めたのである。

  ところが、詳細にいろいろ書くことができたのは行きのヒコーキの中だけであった。初めの意気込みだけが勝って、次第に尻すぼみとなり、三日坊主でやめてしまう筋トレのようなものとお考えいただくと、それは少し違う。
 書きたい気持ちだけはあったのだが、時間がなかったのである。とにかくタイトな日程で、朝が早く夜も遅いし、移動が多いと来ては、落ち着いてノートを広げる時間がない。だから、ひとところに座って落ち着いていたヒコーキの時間が終わると、あとは単なる出来事の羅列となった。

 それで、今旅行記を書くと大見得を切ってしまったものの、どうしようかと迷っている。旅行の日程を載せてみても仕方がないし、断片的なメモを再録してもつまらないだろうし。・・・というわけで、まだぼくは日本にいる。この際、しのごのいわないで、強制的に出発してしまった方がいいのかもしれない。・・・

 コロンボの空港に降り立つと、いきなり夏であった。北半球だから、スリランカも冬のはずであるが、日本の7月くらいの気温である。ゆっくりと流れてくるあの暑熱を含んだ空気が、見知らぬ土地のにおいを運んでくる。
 偉いお坊さんの招待客であったぼくたちは、経済担当大臣という人のとってくれた特別室に案内され、入り口でサリー姿の女性からブーゲンビリヤに似た花のレイをかけられた。甘い香りに、疲れた体が一瞬元気を取り戻す。

―以下次項。

     風海

輝ける島―獅子国紀行① 序章

 突然ですが、スリランカへ行ってきました。その経緯は以下の通り。

 空味さんのお父さんはK山の大徳(だいとこ)である。昔日本に留学して一緒に修行していたスリランカ人のお坊さんが故国に帰って社会福祉事業を始められ、今年がそのM社会福祉センター設立三十周年に当たっていた。その式典が二月末に行われることになり、奈良にある世界遺産G-G寺がツアーを企画して団体でそれに参加することになったから、お前らも一緒に来ないかと言われ、二つ返事でついて行った次第なのである。

 スリランカは、首都の名が「スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ」だと中学生の時に記憶したくらいで、あとは紅茶の産地としてしか知らず、これまでほとんどなじみのない国であったが、この度行ってみて非常にいい印象を持った。

 そのことについてはおいおい書いていくつもりだが(多分)、今日はその序章ということで。このたび、一番大変だったのは移動である。時差三時間半というのは近くもなく遠くもないといったところで、それほど苦労するとは思っていなかった。ところが、朝十一時にヒコーキが飛んで、ついたのが現地時間の午前零時過ぎなのである。日本時間でいえば明け方の三時半過ぎ。

 台北経由、香港乗り換え、バンコク経由で、ようやくコロンボに入る。スリランカは国際線は夜中しか入れない決まりになっていて、どこから言っても必ずこの時間以降になるという。どういう訳でこんなはた迷惑な決まりを作ったのか知らないが、実際乗っている時間と空港で待っている時間を足して十六時間というのはかかりすぎである。

 とはいえ、そういうデメリットも影をひそめるくらい、スリランカはぼくの性に合っていた。寒いところから暑いところへ行くので、体調の変化に気を使っていたが、気にすることはあまりなかった。ちょうど日本の6~7月くらいの気温で、蒸し暑かったが緑が多いせいか空気が澄んでいて息苦しい感じはしない。昔中国では、中原の寒いところにいた人たちは南方を瘴癘の地と呼んで恐れていたが、確かにマラリヤなど怖いことは怖いのだが、スリランカは熱気も湿度も実に気持ちのいいものである。 

  ところで、「スリランカ」とは、「スリ(輝ける)」「ランカ(島、国)」という意味だそうで、首都はスリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ(コッテ地方の輝けるジャヤワルダン(前大統領の名前)の街という意味)である。ただ、ここには国会議事堂だけがあり、事実上の首都機能はコロンボが担っている。(以下次項)

   風海

歴史とロマン―はくろん講報告―

  今日ビヤ王S氏が福岡からやってきて、講が開催された。メンバーはぼくとシマノフを合わせて三人。場所は三宮某所のカフェであった。メンバーの中で最も裕福なのがS氏であるため、いつも来ていただいて恐縮である。

  講のお題は歴史記述。実は、開催が決定したとき、S氏からこんなメイルをもらっていた。

風海くんからの前便で問題提起された「実証」ですが、私の考えでは、「実証」も結局は物語にすぎないということです。おっしゃる通り、歴史家が行っている「実証」は、史料操作で「ここにこう書いてある」というものにすぎないモノです。

 我々がこれまで話し合ってきたように、史料に書いてあることは結局ひとつの「物語」に過ぎず、そこに書いてあるからといってそれが真実とは限りません。なので「史料に忠実な実証」というのも、史料操作によって描き出された「物語」にしか過ぎないということになると思います。

 でもそれは身体論による実証もそれほど違わないのではないでしょうか。科学的なデータであっても計測の仕方やどのような数値を採るかで、得られるデータもかなり違ってきますし、経験則なども個人的な感覚によりますので、そういったデータをもとにした実証と言うのも、それもやはり「物語」になってしまうのではないでしょうか。
 
 つまり、私が「実証面がよわいので、もう少し実証的な面を補わなければ」というのは、今回の発表は、主父偃という個人の性格や動向から制度を見るという、ジャルダン的な「物語」に集中しすぎていたので、いわゆる科学者、実証主義者向けの「物語」もきちんと書かないといけないな、と言うことになるのだと思います。
 
 なんだかうまく説明できていませんし、シマノフくんにはここまでの経緯がわからないまま話をしていますので、意味不明かもしれませんが、今回の講で風海くんが提起してくれた「実証」の問題についてもお話できれば楽しそうですね。

この話題について、五時間近く語り合う予定だったが、いつものごとく脱線に次ぐ脱線で、その方が結局面白いからいいのだが、当該問題に触れた時すでに日は西に傾き始め、ビヤ王はすでに酔いを発し、ぼくは若干眠くなっていた。

  しかし、ロマンか歴史かという点で、われわれが揺れているということは確認できた。歴史は科学だ、ロマンはない、と言い切れたのは、それこそ歴史がロマンだった時代である。そういう大見得を切れないところに、今のぼくらは来ていると思う。しかし、S氏の新幹線の時間があって、この話は中途半端で終わってしまった。次回につなぐという意味では結構なことだが、少し物足らない思いが残る。

  そこで、みなと別れてから、一人で少し考えたのであるが、歴史のロマンと、小説や物語のロマンは違うのではないか。小説、物語ならば、面白い話があればいい。しかし、歴史の場合、やはり学問という制約が残る。つまり、知的強度のブレなさと、思考の流れの確かさが求められるのである。

  そして、そこにこそ、歴史のロマンはあるのではないだろうか。ある問題に関して、さまざまな視点からの検証、さまざまな層からの論理構築を行い、最終的に登場する人間なり事実なりを多面的に掘り起こすのである。そこにかかる知のアクロバシーが、つまりはロマンに相当するのではないか。

  そういう風に考えてみた。今日ご一緒したお二人にこういう言い方で通用するかどうかは分からないが、ひとまずこれを今の見解として提示してみたい。よかったら、「苦手」といわず、コメントにおいてご批判ください。

  風海

脚本の妙

 昨年引っ越してからうっかりテレビというものを買い、これを眺めるという習慣ができたが、そのおかげでドラマをたまに見る。

  毎週楽しみにしていた『秘密諜報員エリカ』が終わってしまい、今はNHKの朝のドラマを見ている。『ひまわり』はどうもストーリーがあざとく、戦争中のエピソードなどもどこかで聞いた話をあまり加工せずに使っているような感じで、鼻白んだが、今度の『カーネーション』はほぼ同じ時代を扱っているのに、出来が格段に違う。

  脚本がいいのだと思う。役者が自由にのびのび演じている感じがするし、ストーリー展開もテンポが良くて、引き込まれる。また場面の重奏をうまく使っているのも効果的である。

  たとえば、髪結い屋の泰蔵に憧れる料亭の娘奈津が、泰蔵の祝言の日に物陰から恨めしそうに眺めているシーンが数か月前にあった。そして最近その泰蔵の息子が奈津にひそかな恋心を抱き、奈津が怪しげな雰囲気のおっさんと結婚するという場面で、柱の陰に唇をかむ息子の姿を映していた。

  こういう場面の作り方はよほど意識的にドラマの構成を学んだ人がやっているという印象を与える。脚本家の実力が非常に高いのだと思う。

  これまでテレビをあまり見ていなかったが、たまに見ると勉強になるなあ。

     風海

 

歴史学について―システムとしての国家―

 「歴史」学とは、何を書くものだろうか。どうも最近の傾向を見るに、現在では、「史料紹介」が論文に偽装してまかりとおってはいないだろうか。ぼくが学生の頃、「独創性」ということが盛んに言われたものだが(今でもそうか)、明らかに「その史料」を使うだけのためや、当該問題のみにしか有効でない論文が多くなっている印象であった。

  信じ難いことであるが、ある事象Aを調べる⇒結論「Aという事象があることがわかった」式の論述が結構あるのだ。苫米地英人さんがどこかに書いていたが、発明とは、道具と用途が一対一対応であってはだめなのである。例えば波板の釘を抜くくぎ抜きは、「そのこと」にしか使えないので「発明」とは言わない。では十徳ナイフはどうか。これはもう少し用途の幅が広いが、ナイフに栓抜きなどをくっつけただけで、これがあるために音楽ライフが豊かになるといった特典はない。

  つまり、普通はそこに何の連絡も見いだせないようなところに道をつけるから面白いのであり、首-尾が初めから一貫して見えているものはつまらないと思う。
  これを無理やり歴史の話に接続すれば、歴史論文でよいと思われるものは、全く気付かなかった展開へと視点が開かれているものだと思う。

 昨年末、上田耕造「シャルル7世の顧問官―フランス王国の転換を導くものたち―」(『西洋史学』第238号,2010.9)を読んだ。彼はこの論文で何を考えようとしていたのだろうか。どこへ向けて問いを開こうとしているのだろうか。彼の問いかけに「乗って」みようとしたとき、われわれはいったいどこへ導かれるのだろうか。

  単にある事実を明らかにするのではなく、そこを考えさせるのが、論文における「ナレーション」の技術であろう。自然科学では、すでに主観と客観は分けられないことになっている。ならば、歴史事実とそれを物語るストーリーも、不可分のはずである。このことはすでに、ヘイドン・ホワイトが指摘している。彼は全く正しかったというほかはない。だからかどうか、ホワイトを懐疑主義者と言って、徹底的に批判したカルロ・ギンズブルグの最良の仕事は物語的である(『ベナンダンティ』、『チーズと蛆虫』など)。

  上田論文は、15世紀のフランスにおける国制の展開を述べたものである。そこでは、シャルル7世がいかにして顧問官と共同し、「国家」を作り上げていったかという点が眼目となる。この論文はそこへ至る動向をかなり正確に跡づけているが、しかし筆者の意図に逆らって、そこから浮かび上がってくるのは「かたち」の決定した「国家」などではなく、流動的でどのようにも形を変える可能性を持った、あやうい「バランス」なのである。

  ぼくは以前、イギリス中世史研究者のアーサー・G・ケイゾー氏と会話した折、氏からジャンヌ・ダルクの時代にフランスという国家の礎が出来上がったとするミシュレ的見解はでたらめである、と伺った。知っている人は知っているあの例の早口でまくしたてたから、ことの詳細は分からなかったが、ミシュレの解釈はロマンにすぎず、実情は流動的で、はなはだ頼りないシステムしかフランスにはなかったのであり、到底「国家」と呼べる代物ではなかった、ということらしい。

  上田論文の描き出す顧問官の動向は、まさのこの危ういシステムの一側面なのである。国家とは、一つの虚構である。シャルル7世にはそのことが肌感覚として分かっていたのではないか。だからこそ、顧問官をはじめとする利益共同体の上に立つだけでなく、もう一つの柱を聖性に求めることで、ランスにおける戴冠を果たす。そのバーターがジャンヌ・ダルクであった。

  シャルル7世とオルレアンの少女の同時に見た夢が現実となり、あるシステムが離陸してゆくと、少女は元の少女に戻ってしまう。動き出したシステムは、自身の生き残りをかけて、少女を犠牲にする。それはすでに動き出し、バランスのうちにあるために、個人ではもはや手出しができないのである。

  この自動で動いてゆくシステムのことを、人々は「国家」と呼びたがる。シャルル7世と顧問官が、何かの機能を果たしたとすれば、それはシャルル7世の思惑が通ったのでもなければ、顧問官たちの目的が一致したためでもない。システムの中に取り込まれ、流れの中へと放り出された結果である。

   風海

 

思ったことなど

 数日前の新聞に、悪事に使われて有名になった某ファイル共有ソフトを開発した人の記事が出ていた。起訴されていたのが、無罪になったというのである。本人としては無罪放免はありがたいだろう。しかし、その無罪具合が少し気になるのである。

 本人曰く、「悪用されることを考えて作る人はいない」。そりゃそうだ。しかし、ちょっと考えればわかりそうなものでなないか、とも思うのである。ソフトの作者は東京大学で助手をしていたそうだ。だったら相当なインテリだと世間は思う。そして、そういうかしこい人が純粋に研究してできたものがたまたま悪用されただけだと思う。・・・わけないだろうが。

  科学の基本は「ああすれば、こうなる」だと養老さんも言っている。そうだとすれば、ファイルを構想した時点で、悪用の可能性に気づきそうなものではないか。気づいていて、そのまま放置してはたして悪用されたのであれば、それは本当に無罪か。また、本当にその可能性をつゆほども考えなかったとしてならば、それはもはやバカのグラン・クリュである。
 新聞を読んでいるとどうもそういうおかしなことが多い。精神衛生上は読まない方がいいのであろう。

  今年ももう少しで終りである。この記事も、毎日書こうと思っていたこともあるが、読むのは近しい友人だけである。だったら、よく会っているから、わざわざ文字で発表することもない。口頭の方が早いからである。遠くにいてあまり会えない人もいるが、少なくとも死んでいないことが伝わればいい。そう思うと、記事を書くのが面倒になった。パソコンはぼくの筆記具ではない。いまだに紙とペンで書いているのだから、パソコン画面に向かうのはやはり少し違和感なのである。

  しかし、来年は、もう少しましなものをもう少し多く書いてみようと思う。そうやって、皆さんに読んでいただき、批判を受け入れることで、ぼく自身、バカのグラン・クリュにならないようにしたいからである。

  では皆様、よいお年を。

  風海

«伊部の茶碗

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